さよならオーバーグラウンド

愛なき道を行け。

「男性であること」への嫌気と申し訳なさ。

最近「性」について考える。というか自分が男であることを考える。そして、ため息を吐く。今回はダラダラ書くつもりなので稠密性はないと思います。

ぼくは以前大学時代にゼミのブログで映画の紹介記事を書いたことがある。3年前の記事である。

blog.livedoor.jp

読み返すとかなりひとごと感があり、文もボロボロなことがわかる。勉強不足だった。

この記事から3年が経ち、ある程度の勉強と経験と思索により、当時よりちょっと考え方が前進(あるいは、幻滅)した気がしているので、それについて書きたい。まず、当時のぼくはこんなことを書いている。

ありのままの自分であることは誰にとっても難しい。ときには主張をねじ曲げて黙ってしまうほうが楽に思える時もあるだろう。しかし、それでも自分らしくあるということ。存在を認めさせるということ。それが自分たちのプライドを守るための当然の権利であるということをこの映画は身をもって体験させてくれる。そして、これはLGBTの人びとだけの問題ではなく、誰もが、ありのままの自分らしくこの社会で生きるためには話し合わなくてはならないことだ。そこには熟議民主主義の萌芽が眠っているようにも思える。

非常に楽観的な文章である。しかし、上記の文で、ぼくは自分らしくあるということを「認めさせる」という言い方をしているが、これは誤りである。端的に言って「認めさせる」必要はない。「認められる」必要はない。上記の引用の書き方だと、性的指向に関してあたかも他人の承認が必要であるかのような書き方だけど、実際、そのような承認は必要がない。詳しくは以下の本を参照されたい。LGBTの各概念が生まれた歴史的経緯が書かれている。

LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書1242)

LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書1242)

 

 

加えて、ぼくは男性である自分が女性を好きであるということは、必ずしも確定的ではないのではないか。と思っている。とはいえ、ではぼくがゲイであるかと言われるとそうではないような気がする。ぼくの性自認は男性である。そして、ぼくの性的指向は女性である。そういう意味でぼくは男性の異性愛者である。であるのだが…、ぼくは正直なところ、もうよくわからないというか、今現在の日本で、男性の異性愛者であることは非常に難しいなと思っている。難しいというか辞めたい。もう辞めたい。嫌気が差している。というのは、いわゆる男性向け性産業、たとえばネットのエロ漫画のバナー広告とか、コンビニの成人向け雑誌棚とか、レンタルビデオ店のAVコーナーの18禁ののれんとかを見るとむかつくし馬鹿にされているようで心がめげてしまう。そして、怒りを感じるし、いたたまれない気持ちになる。

 

 

男子の貞操: 僕らの性は、僕らが語る (ちくま新書 1067)

男子の貞操: 僕らの性は、僕らが語る (ちくま新書 1067)

 

 上記の本で、坂爪氏はこんなことを書いている。「本書の中で一貫して主張してきたことは、セックスは、『探すもの』でも『取り換えるもの』でも、はたまた『売り買いするもの』でもなく、『自分の手で作り上げるもの』である、ということです」(p.238)

詳しいことは坂爪氏の本を参照してもらうことにして(余談だがぼくは著者のファンであるのだが、以前大学祭のイベントの折に別の本だがサインをしていただいたことがある。自慢)、つまりなにが言いたいのかというと、セックスは経済的な交換によってするものでは決してないということである。

そして、経済的交換でないセックスというか経済的交換でないコミュニケーションでさえももはやここ、日本には存在しないのではないかと思えてくるということだ。そして心がめげる。折れる。

性産業が搾取している関係性の貧困については以下の本を参照した。JKビジネスのような搾取がまかり通っているというのも本当に心が痛い。

女子高生の裏社会 「関係性の貧困」に生きる少女たち (光文社新書)
 

 

ところで、全然関係ないけど、ちょうどさっき、ツイッターを見ていたら異様な映像のツイートを目にした。始球式に登場したタレントの稲村亜美氏めがけて、シニアリーグの中学生たちが殺到する映像。目を疑ったけど、きっと悪ノリ程度の気分なんだろう。最悪だ。吐き気がする。

稲村亜美に、無数の中学生が押し寄せる異常事態。シニアリーグの担当者「予想できなかった」

こういうできごとが起こっているというのは本当に憤りを感じる。

 

話を戻そう。ぼくはもう男性の異性愛者であることをやめたいというか、自分が男性であるということが恥ずかしい。これは逃げであると言われても責任の放棄であると言われても仕方がないけれど。なんというか、男性の女性への搾取という状況にぼくは関わりたくないし、そういうことをする人と一緒にされたくはない。しかし、アンコンシャス・バイアスみたいに、ぼく自身が女性差別や女性の搾取に加担していないとは言い切れない…。

 

余談だが、家族が晩御飯のときにテレビを見ているので嫌でも目に入るのだが、笑福亭鶴瓶氏の番組「家族に乾杯」を、最近ぼくはうまく楽しめないでいる。というか、なんだか複雑な気分になってしまうのでなるべく見ていない。というのは、「家族」的なものとかプライベートにぐいぐい分け入っていく笑福亭鶴瓶氏に対してハラハラしてしまうのだ。家族という概念自体には触れないが、あの番組では、男性と女性のカップル、そしてその子ども、そしてそのまた子どもといったテンプレの元で番組が進行しているように見える。番組を全放映を見ているわけではないので、厳密なことは言えないのだが…。なんというかSOGIハラじゃないか、これと思うこともないではないので。

 

もちろん、ぼくだってAVを見たことがあるわけで、石を投げる権利はない。ただ、AVをもう見たくはないし見られないだろう。その存在を肯定はできない。出演するというのはよほど、なにか悩みとか問題を抱えているのではないか、一人で抱え込んで身動きが取れなくなってしまっているのではないかと思ってしまうのでただただ暴力的につらいだけである。悲しい話だ。

 

男性の性被害者を無視しているつもりはない。論じていないからといって存在を否定をしているわけではない。

 

結論を言うと、ぼくにとって今の日本は非常に生きにくくなりつつあるということだ。そして、男性のぼく以上に、女性は、女性であるというだけでさらに生きにくくなっているということは想像に難くない。これほどまでに女性をないがしろにしている社会に加担している性別たる男性であるぼくはいないほうがいいのではないかとすら思える。笙野頼子氏の『水晶内制度』みたいに。

 

水晶内制度

水晶内制度

 

 

上記は女性のみの国家の創造神話の話である。

 

さらに、ヴァージニア・ウルフが現代日本を見たら、さぞがっかりするだろう。自分の時代から全然進んでいないじゃないかという声が聞こえてきそうだ。

 

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

 

 

ぼくは大きな主語というのをあまり使いたくないのだが、女性や男性、日本といった主語を使ってしまった。例外はもちろんあるだろうし、目の前の人を性別に関係なく大切にしたい。

 

性的指向が女性の男性である、ということが非常に罪悪感があるというか後ろめたい。それに尽きる。まじで生きづらい。つらい。

とはいえ、目の前の人が女性であるとか男性であるとか関係なく、目の前の固有の人を愛そう、大切にしようと思う。おわり。

 

追記。さよならポニーテールという音楽ユニットが好きなんですが、男性×女性というフィルターで、歌詞中の「ぼく」「きみ」を読んでしまっている自分に気がついた。というのは、さよならポニーテールのラブソングですら、聞いていると複雑な気分になるからだ。歌詞のさすものが異性愛だと自明であるわけではないのに。

 

追記2018/03/14

ぼくは牧村朝子氏がcakesにて連載している素晴らしいエッセイを読んでいる読者の一人であるのだが、というか読んでいるにもかかわらず、僕はこの記事を書いているのは勉強が足りなかったと反省している。端的にぼくは、女性を好きになることが、暴力に加担しかねない、あるいは好きになった相手を傷つけかねないのではないかと(まとめると)考えた。しかし、傷つけるかどうかなんて女性であること以前に常識的にしてはいけないことであるし、女性以前にその人を人として見るという視点が欠けていたと思う。ただ、ぼくが臆病、あるいは横柄なだけであると思った。

 

 

 

Facebookに久しぶりにログインしたら自分が死んでいたことを思い出した。

久しぶりにFacebookにログインした。大学時代の友人たちと全く連絡をとっていなかったので、友だち欄がとても懐かしかった。でも、感傷的になるには時間が経ちすぎていて、当時のことを断片的にしか思い出すことができなかった。それに、そうだ、ぼくは死んでいたのだと思った。どういうことか。ぼくは最近学んだのだが、ぼくが気配りだと思っていた過去の様々な振る舞いは盛大な無駄でしかなかったようなのだ。確かに思い当たる節がある。非常に耳に痛い話だ。そして、そうした今となっては余計なおせっかいであったいろいろなあれこれを思い出すにつれ、非常に胸がいたんできた。心臓も今日ばかりは赤血球の代わりにいがぐりを流すことにしているかのようだった。血管がちくちくと悲鳴を上げるに連れていろいろなことが思い出された。ということは、つまりぼくは忘れていなかったわけだ。若気の至りと言えばそれまでなのだが、貴重な友人たちとの楽しかった日々を。ただ問題は、ぼくにとっては楽しかったとしても友人たちがそうしたできごとを同じように思っていたわけではないということだ。『Novel 11,Book 18』の主人公の息子のペーテルみたいに偉そうに、ぼくは講釈たれて煙たがられていたのかも知れないし、昼食のときにできれば他のテーブルに行ってくれないかななんておもわれていたことぐらいあったかもしれない。今となってはわからない。非常に痛ましい話だ。そして、よくある話でもある。良かれと思ってやったことが(そのときは良かれとさえ思っていなかったとしても)、実は周囲にとんでもない迷惑を撒き散らしていたなんてことは。

 

おうおうにしてあることではあるのだが、ぼくは結局のところ誰からも必要とされていないのではないかと思う。相変わらずうじうじと嘆いているし。

 

川上未映子の『あこがれ』を最近読んだ。もっと早く読めばよかったというのが、まず第一の感想である。なぜか。それは登場人物の一人であるヘガティーが教えてくれる。ミスアイスサンドイッチに会いに行くことをためらう麦くんにヘガティーはいますぐ会わなければ、そして会い続けなければ、その人は簡単に、いともたやすく君の目の前からいなくなってしまうだろうと言う。ヘガティーは非常に大切なことを言っている。そして、ぼくはこのことを早く学ぶべきだったのだ。ヘガティーは言う。「できるだけ今度っていうのがない世界」の住人になることにしたのだと。ぼくがある誰かと会う理由を考えているうちに、会うのを後回しにしているうちに、その誰かはみるみる遠ざかっていくだろう。とり損ねた回転寿司の皿のように。取り損ねたと思った時にはもう他の誰かが手に取っていて、もう僕が手に取ることはない。なぜならそれはもう誰かのお腹の中だからだ。そのとき、ぼくは誰かに会う理由を、余裕のない顔でまるめて歩道橋下を通り過ぎるトラックの荷台にでも放り投げたつもりでいるのだ、そのまるめたものが友人そのものであることに気がつくこともなく。私たちがとある誰かに会う理由なんて、例えば学校や会社とかいうシステムの外側では、ほぼ皆無に等しいのだ。学校に行かなければ、会社に行かなければ、まったく会わないなんてことはざらにある。ざらにあると言いながら、ぼくは『あこがれ』を読むまでこのシンプルなことに気がつきもしなかった。自分自身が友人たちの前から突然姿を消した当事者であるにもかかわらず。そうなのだ。誰かに会う理由というのは実は非常にシステマティックで現実的な理由であることがほぼ全てなのだ。密接に指を絡ませあっている恋人同士でさえも、だからこそというべきか、次の瞬間には簡単に音信不通になってしまう。あなたが絡ませているその指同士がARの投下映像ではないという保証ははわあねよあかかこつあううない。ぼくと誰かをつなぐ理由なんて実は本当は蟻の足跡ほどもなくて、あれほど仲が良かった(とぼくが勝手に思っていた)友人も、大学を卒業してしまえば、何の音沙汰もなくなってしまう。Facebook上でのいいね!の交換すらしなくなる。それは相手が、実はぼくのことを嫌いだと思っていて、距離を取りたがっていた証左だというよりも、むしろ、ぼくとその誰かを結びつけるものというのは、実は大学という非常に実際的なシステム自体であったというだけなのだ(語り合った言葉の重みや、一緒に過ごした時間といったものではなく。そうした見えないけど堅牢そうに見えるなにかに思いを仮託したくなってしまう気持ちは痛いほどわかるし、そうした見えないものの力が弱かったせいで疎遠になってしまうんだと結論づけたくなってしまうのだが)。それに、ぼくだけがその誰かの友人なわけでもないのだ。その誰かにだって、その人自身の人生があり、社会人としての生活があり、その生活での新たな関係の立ち位置があるのだし。

 

いずれにせよ、何が言いたいのかというと、ぼくはとうぶん立ち直れそうにないということだ。失ったものの大きさに今頃気がついた。僕が虫喰い程度の穴だと思っていたものは実は航空写真のそれで、本当の実寸は琵琶湖くらいあったのだ。そして、4年経った今、その湖ももう涸れてしまっていた。厳密には僕自身が涸らしてしまったのだということに気がつくのに4年かかった。