さよならオーバーグラウンド

愛なき道を行け。

さよなら明るく楽しく美しい未来よ!!

カンザスシティは今日も晴れ。夢のような景色である。普段から履きなれていたスニーカーにとうとう穴が開いてしまったので、新しいものに替えた。

整理整頓ができないので、タンスの中がぐちゃぐちゃのわたしは、頭の中の整理もわりとぐちゃぐちゃで、夢で見たことが現実に起きたことかのように錯覚することがままある。それはつまり、わたしの見る夢が、現実にかなり近い状況をなぞっているということである。

いつか話そうと思っていてもなかなか話せないことってある。そしてそのまま卒業してしまうこともある。後悔でご飯は食えない。

 

今日、駅に行ったら、振り袖の女の子がたくさんいて、ああそうか、成人式かと思い至った。わたしは成人式は出ていない。成人式のほかにも入学式も卒業式も、出ていないし、高校の同窓会もゼミのOBOG会も行ったことがない。わたしの悪い癖で、人生の節目で友人たちと完全に縁を切ってしまうというのがある。小学校の友人は小学校まで。卒業したら一切かかわらない。中学も高校もそうだった。そして、大学もそうなってしまった。なので、いまわたしは友人がゼロなのですが、誰か友人になってくれ。

一切かかわらないと書いたけれど、なにも積極的に縁を切るわけではない。いつのまにか疎遠になり、会うのが怖くなり、恥ずかしくなり、連絡が来ても無視をし、最終的には電話番号を変えてしまう。退路を断つというか、わたしにとって過去というのは失敗に次ぐ失敗で、後悔や恥ずかしいことばかりで、今思えばそれは、他人からしたら青春という言葉でくくられるのだろうけれど、わたしにとってはなんとしてでも捨てたいものだった。そして、そんな恥ずかしかったり、後悔しまくったりのできごとに関わりのあった学校やその友人たちというのはどうしても忘れたいものランキングの上位になって、いつのまにかすっかり忘れてしまう。

とはいっても、今になって急に高校時代の恋愛沙汰を思い出して赤面することもあるし、友人と縁を切っちゃったからといって、学生時代がなくなるわけではないので、まあ、いいことだったとは思えない。

例えば、わたしは高校時代、懇意にしていたYさんという女の子がいたのだけれど、彼女からデートに誘われても断ったりしていた。今思えば、わたしは彼女とのヒビが楽しかったので、デートしてもよかったのになと思うのだけれど、今になってはおそすぎる。たとえ、たとえ、連絡がついたとしても、今から関係を元通りにするなんて無理だ。やっぱり高校生時代独特の熱みたいなものをわたしたちは当時纏っていた。そして、それはもう今は面影すらない。

誰かを好きになりたいなーと思うときに限って、そういう人は現れてくれない。めんどうなメンヘラとかストーカーにつきまとわれることはあっても。

ああ、そう。最後に、言い忘れていたことを書いておしまいにしよう。成人になる瞬間というものはないです。義務は当然あるからそれでああ、わたしもおとなになったな―と思うことはあっても、人間関係や勉強や仕事がうまくいくようになるわけではない。私たちは地続きの人生を送っているので、どんなに恥ずかしい過去も捨て去ることはできない。わたしが、高校生の頃気持ちを上手く伝えられなかったことも、今につながっている。ポケモン好きだった少年は24歳の今も相変わらずポケモン好きだし。

 

それじゃあ、今日はこのへんでおしまい。すべてフィクションです。おやすみ。

 

Ending Song

チャットモンチー「湯気」

羊の放牧あるいは軽やかなシャンパン関係。

20代のみなさん、羊は放牧されていますか。うまくされているならそれでいいです。

 

社会人に対してコンプレックスがある。それはもう無数にある。その一つが恋愛である。社会人の恋愛がどんなものかわたしは知らない。今は便利なものがあるので(というか、わたしはそれしか知らないけれど、昔が不便だったというわけでもないのだろう)、ツイッター越しに他人の恋愛模様をうかがい知ることができる。ツイッターはこの世がコーヒーだとしたらエスプレッソくらい凝縮されているので、不倫も、浮気も、セフレもなんでもすぐに観察することができる。それと同じくらいの惚気も見られる。ただ、実体験として社会人として恋愛をしたことはない。

わたしの妄想では、気が向いたら誰かの人のうちに行ったり、気が向いたら呼んだり、気が向いたら誰かとセックスをして、その日の気分にあった誰かとデートをする。さまざまな人間関係がいくえにも折り重なって、嫉妬したり、もっと好きになったり、じゃあ、結婚でもするかみたいな気軽なものだと思っていた。

ところがどうでしょう。実際はそんなものではないらしい。普通の人は特定の付き合う人ができたら、つまりカップルになったらその人だけを好きでいなくてはならないらしい。他の人には「もう会えません。ごめんね」って言うこともあるらしい。

 

意味がわからない。

 

大人がそんなことするの?経済的にも自立してる大人が、高校生や中学生みたいに一人を束縛したり、されたり、そんなことありうる?

 

とはいいつつも、わたしだって、浮気されたら嫌な気分になるかもしれない。でも、想像する限りは、性病もらってきたとか、金銭的にもつれたとかそういうトラブルでこじれてる以外で、つまり気持ちのゆらぎみたいな曖昧な見えないものによって、悩んでいるのなら、それはちょっとどうかなって思ってしまう。

 

さて、最初の問いかけに戻るけれど、20代のみなさん、羊は放牧されていますか?されていないのなら、ぜひ放牧しましょう。ワン・オン・ワンの恋愛関係ってそんなに大事なものですか?相手が自分に言えない秘密があろうと、それが自分に危害を及ぼさないならばどうでもよくはありませんか?

 

え?30代?はやく結婚しましょう。

 

それでは今日はこのへんでおしまい。おやすみ。

 

Ending Song

アンアミン「ジャイアントパンダにのってみたい」

世界を切り取るのは誰か。

小説の地の文が読めなくなって久しい。読もうとすると、お尻のあたりがかゆくなり、目眩がして、吐いてしまう。厳密にいつからかはわからないが、嘔吐まみれの文庫を山ほど捨てたのは覚えている。

地の文が読めないというのはどういうことか。例えば、「ある9月の晴れた朝のことだった。季節にしてはまだ早い肌寒い風の吹くホームのベンチで、シーモア・グラスはコーヒーを啜りながら8:49分発、ウェスタンヒル行きの列車を待っているところだった。待合室は、旅行客とスーツの客でごった返し、子どもは腹が減ったと泣き喚き、老人は次期大統領についての醜聞についてつんざくような大声で語り合っていた――」おまえは誰だ。主人公なの?著者なの?とにかく、恥ずかしい。自分で書いていても恥ずかしい。わたしは、とにかく、こういう文章が、美しいとか下手だとか(上記の例はわたしの書いた駄文ですが)以前に、読んでいてとても気恥ずかしくなる。じゃあ、こんなのはどうだろう。「僕の隣に知らない女が寝ているのに気がついたのは、陽光がビルの並びよりもわずかに伸びた頃だった。昨日のことはよく覚えていなかった。知らない友人の結婚式の後、バッティングセンターに行ってひとしきり汗をかいて、そのあと、一人で自分のマンションに帰ったはずだった。そういえば、帰りがけに男に声をかけられた。それ以降の記憶がなかった。体を起こすと、薄明かりに透けて、レモン色のパジャマを着ていた。もちろん、僕の服ではなかった。隣の女はすやすやと眠っていて起きる気配がなかった。体をこちら向きに丸めて、穏やかな寝息を立てていた――」止めて!ストップ!誰も何も言わないから止めようにも止まらなかった。こういうやつも鳥肌が立つほどに、おまえは誰だよと、言葉が口の端から飛び出そうになるのをこらえなくてはならない。

 

よくこんな想像をする。たとえば、ゲームがある。なんでもいいけど、できれば、一人称視点のものがいい。FPSのシューティングとかがいい。そういうゲームで、自分の世界は、その画面がすべてである。右を向けば、当然右の方向の世界が見えるが、左側にあったものは見切れてしまい見えなくなる。そのときに左にあるはずのもの。それは果たして存在しているのだろうか。ゲームじゃなくても現実でもいい。わたしは今机のラップトップに向かってこの文章を書いている。当然、ラップトップの反対側、つまり部屋の反対側は見えない。振り向いて、反対側を見ると、何もいない。おかしい。確かになにかがいた気配がするのに。もう一度振り向く。もちろん何もない。あるのは、ベッドと、テレビと、ソファだけである。そのときだった。テレビの電源が何の前触れもなく点いた。思わず振り向くと、画面は真っ暗なままだった。この部屋にはわたしとねこしかおらず、テレビのリモコンはベッドのそばのサイドテーブルにある。どうしちゃったのだろう。わたしは、ベッドまで行き、リモコンを取って真っ暗なままのテレビを消した。プツンと一瞬のかすかな閃光を残して、電源の光は青から赤に戻った。机に戻って文章の続きを書こうと思ったら、今度はラップトップの画面が暗転していた。おかしい。

 

何の話?

 

ゲームの画面が見切れたときにその見切れた部分は存在するのかって話でしょ!あやうく、心霊現象の話っぽくなるところだった。で、つまり、何が言いたいかというと、目で見えるものには限界がある。わたしは前と後ろをいっぺんに見ることはできないし、遠くのものを見ることもできない。また、とても小さなものを目視することもできない。目で見えていないものでも、たしかにそこにあるはずだ。でもそれは、ただ単にあるはずだと仮定して話を進めているだけだ。

地の文の話に戻るけれど、地の文が読めないのは、おそらく、そこに確かに残る明らかな切り取り方の偏りが、さも客観的なものですよと言わんばかりの顔でわたしに訴えかけてくるようにみえるからだ。わたしには見えているものしか見えない。なので、わたしが書く文章には、必ずわたしが書いた痕のようなものがあざのようにべったりと残るはずで、それは他の人の文章もそうである(はず)。だから、普遍的を装う(ように見える)文章を見ると、つい「しっぽ見えてますよ!」と言いたくなってしまう。

 

時間がだいぶ過ぎてしまったので、今日はこのへんでおしまい。まとまらなかったけどまあいいや。おやすみ。

 

Ending Song 

Rayons「Waxing Moon」

ナルシストへの長い道のり

とりとめのないことを書くのが苦手で、言葉にならない感情みたいなものをすくい上げてなんとか言葉にするみたいな営みに憧れがある。

大学の頃、ゼミのブログをたまに、本当にごくたまに更新していた。他に誰もする人がいなかった。更新する必要もなかったのだけれど、わたしはきっちり書くのが好きでやっていた。そのゼミのブログで政治思想の入門書をレジュメにまとめたものを更新したら、著者本人から感想を頂いたことがある。あれは嬉しかったな。他にも映画のレビューなどもした。完全に私物化していたから、今思えば申し訳なかった。わたしの書いたレビューは誰からも見られることがなくて残念ではあった。

映画や音楽、ゲーム、ガジェットなどこの世には無数のレビューをしている人がおり、その膨大な量にわたしはいたく感心している。わたしはたったひとつのレビューを書くのに一ヶ月近くを要した。多忙ではあったけれど、やはり、レビューするのは体力がいるので、ちょっとここではやらない。

わたしを知る人は、今は家族以外にいないけれど、高校、大学の頃はわたしは嫌な奴だとか、いつも怒っているというファーストインプレッションを与えていたみたいで、実際に話してみると意外にも好印象に変わることがよくあった。好印象になったというよりは、マイナスがゼロに戻ったという方が近い。実際のところはわたしはいつもなにかに怒っていたり、不機嫌だったりするわけではない。そういうしかめ面なだけで、特になにも考えていない。今だってだらだら書いているけれど、特にネタみたいなものはなく、書くのって難しいなあと思いながらその難しさについて書いている。そういえば、ツタヤのカードの更新しに行くのを忘れた。明日行こう。

 

さて、そろそろ時間になってきたので最後にひとつだけ書いて終わりにしたい。わたしは今年の目標としてナルシストになるというものを掲げたけれど、ナルシストになろうと目標に掲げるくらいには自分に自信がない。コミュニケーションも下手だし、勉強の才能もはっきりとない。反射神経が鈍いので、ウィットのきいた言い回しも、家に帰ってから思い浮かんであの時こう言えばよかったと後悔することも多々ある。もちろん、もてない。語弊があるけれど、わたしのモテ期は小、中、高、の学生のときに終わりました。

ツイッターには文才のある人、頭の多い人がとても多い(その分やばい人も多い)。気軽にリプライできるような錯覚があるから、なんだか身近に感じることがあるけど、そんなことはない。オフ会と言って、ツイッターで知り合った人たちが集まって飲み会などを開いたりしているけれど、そんなことができるのは選ばれし容姿と高度なコミュニケーション能力のある人たちであって、わたしのような訥弁の凡人が入る余地はない。素敵な人には素敵な人が集まり、より素敵度が高まっていく。それとの比較でわたしの素敵度は錆びついてくすむ。だから、仲良くなりたいなあと思っても、話しかける余地なんてないのだ。もうその相手にはキャパいっぱいの素敵な人がいて、それで充分なのだ。素敵な人と仲良くなるためには素敵度を上げる必要があるが、素敵度を上げるためには素敵な人にならなくてはならず、結局のところ、素敵になるためにはまず素敵になる必要がある。詰んでいるが、人生そういうものである。つらつら書いてきたけれど、だからこそわたしはナルシストにならなくてはならない。自信を持ち、余裕を持ち、そして税金を収めなくてはならない。

 

今日はなんだか疲れた。惨憺たる一日であった。書いていたらいつの間にか40分過ぎてた。今日はこのへんでおしまい。おやすみ。

 

Ending Song

ねごと「黄昏のラプソディ」

 

三日坊主脱却。

三日坊主を避けたいがために、今日も文章を書くことにした。文章を書くにあたってはルールがあり、20分以内で切り上げることにしている。というか昨日までの三日間はそうだった。わたしは、なんでも自分にルールを課すのが好きである。わたしは様々なことでさまざまなくだらないルールを作るが、そのうちちゃんと守られるものは1パーセントで、残りの99パーセントは実行されないか、一瞬で破られる。三日坊主なんてよく続いた方で、ギターは買って一度も弾かずに飽きたし、プログラミングは入門書を一通りやってやめた。もちろん、なにも身についていない。服も一度袖を通しただけで二度と着ないまま山ほど捨てたし、絵を描くこともデッサンの基礎知識を学んだところで一度も書かずにやめた。

 

なんの話?

 

ルールの話がいつの間にか飽き性の話になっていた。そう、ルール。小さい頃によくやった床のマス目の区切り線を踏んではいけないとか、テニスのサーブを打つ前は6回ボールを弾ませるとか、詩を書くときは必ず横書きで四行で一小節にして書くとか、まあいろいろ。そういうものをたとえ共有できなくとも、分かり合える人と一緒になれたらいいよね。

 

なんの話?

 

気がついたら恋人の話になっていた。

 

恋人で思い出したけれど、会話の距離感って難しい。飲み会でたまに話す程度の友人に突然「好きです」なんて言う人がいて「もうちょっと仲良くしてからがいいんじゃないの~」と内心ひやひやしたことがある(振られていました)。あと、これはちょっとと思うのですが、あまり仲良くない相手なのに(相手が男性の場合限定だけど)、「童貞!」とか言って童貞扱いするのはやめたほうがいいです。その相手が本当に童貞かどうかにかかわらず、童貞と呼ばれるのはあまり気持ちいいものではないです。経験なのですが、深く仲がいいというわけでもない、ほどほどの友人たちの前で(わたしの場合飲み会の席で)童貞と言われたのは、ちょっと傷つきました。実際その時わたしが童貞だったかというと童貞じゃなかったわけですが、それを言われた瞬間にその相手を友人として見限りました。上辺の人間関係は続いたけれど、心の中では縁を切りました。

女性が処女扱いされるとどういう気持ちになるのか、わたしにはちょっとわかりかねますが(時と場合と人による)、男性は童貞扱いされると、童貞非童貞に限らず怒るか傷つきます。サンプルがわたしと友人Aの二人しかいないので一般化はできません。友人Aに限っては後でしょんぼりしていました。わたしもその相手に幻滅した。

 

なんの話?

 

ということで今日はこのへんでおしまい。

おやすみ。

 

Ending Song

Henning Schmiedt 「Wanderschuhe」

 

これから大学に入るわたしへ。

 

この文章は、2017年に書かれたものですが、考えというか、考えというほどでもないので、小ネタというのは大学入学前の2011年の18歳のころからあり、たまたま今思い出したというだけです。

昨日の日記との明確なつながりはありません。

この文章は18歳の頃の自分が読んだら大層愉快だろうという意図で書かれています。なので、人によっては不愉快に感じることもあるかもしれませんが、それは感受性のロット差です。

 

さて、今年はじめての三日坊主が生まれるとしたら、今日であるが、この文章もその運命を避けられない。わたしは、そもそもスケジュール管理を頭のなかで終わらせてしまうので、よほど分単位で刻まれているとかでなければ、メモしない。日記も続いたことがない。一時期頑張って続けたことがあったが、結局読み返さないし、読み返したところで、感慨も気づきもなくどうでもよいという気持ちにしかならない。まあ、それくらいどうでも良いことしか書いていないということの裏返しでもある。自分だけが読むとなると一切書く気がわかないのであるが、18歳の頃の自分を面白がらせようと思って書くとちょっと楽しいかもしれない。と思って書いている。

 

18歳の頃のわたしは、今のわたしから見るとしょうもなくせこいやつに見えている。いいやつぶって、自己犠牲、利他主義、ストイック、美しいとか思っているけれど、そんなものは欺瞞なので、やめていいんだよ。君はこれから大学に入ろうとしている。そして、君はそのストイックで利他的な自己犠牲によって自分を消耗し、見失い、他人を恨むようになる。いや、恨むようになるというよりも、そもそも抱えていた恨みつらみが一気に爆発し、どこへ向けてもいいかわからずに自傷をしてしまう。だから、今のうちに、恨みつらみは吐いておこう。先生におもねるのもやめよう。誰も君を見ていないから。

この世のすべては虚構なので、友情だとか、愛だとか絆というものに、君は大学4年間でとてもとても悩まされ、結局鬱になるけれど、はっきり言ってそんなものはない。ないから、持っていないと言って、他人を羨むな。他人もそんなもの持っていない。FBの錯視に騙されているだけだ。隣の芝生は青くない。青いのは常に自分自身だ。

だから、力を抜いて、無関心になれ。君は勉強するために大学に入ったのだ。時間を注ぐべきは研究であって、好きな読書であって、友人関係ではない。全くない。今わたしは一人ぼっちだけれど、僻みとかでもなんでもなく、友人関係はどうでもいいからぼっちを気にするな。君はかなりの時間と努力とお金を犠牲にして上っ面の友人関係を多様に持ち、満足するだろう。一人ひとり誕生日を覚えて仲のよい友人には、ケーキやら漫画やら、無理してプレゼントするだろう。そして、自分の誕生日にFBで誰かが祝ってくれることを、一言おめでとうと言ってくれることを期待するだろう。そして、誰からも祝われないことに絶望する。本当に誰からも祝われない。これは不幸中の幸いであった。祝われたら君はもっとエスカレートするだろう。だから、ある種の冷や水になって、君の目を覚ますだろう。

君は今息を吸うように本を読んでいる。一ヶ月に何冊も本を読んでいる。無理して興味のないものに時間を費やすな。辟易したきみは卒業してからほとんど全く本が読めなくなるぞ。本が読めなくなるどころか、ゲームも漫画も映画もドラマもあらゆる娯楽が楽しめず、時間を潰せずただひたすら布団にくるまって鬱々とぼんやりすることになる。

 

さて、18歳の君には、たぶん、まさかと思うことばかりかもしれない。でも本当だ。すべてこれから君の身に起こることだ。孤独な君は大学で闘い、血を流し、なんとか卒業証書を手に入れるが、最後に残るのもまた孤独だけだ。

 

だから、素直になれ。ムカついたらとことんイライラしろ。不快感をあらわにしろ。穏やかに安定したいとか思わなくていいんだ。それは教師やら周囲からの脅しだ。幻想だ。人生は死ぬまでジェットコースターで、上がったり下がったり先の見えない展開に冷や汗ダクダクで何度も死にそうになる。そして、いつか、くだらないくらいあっけなく死ぬ。冷や汗をかき続けろ。泥くさくあれ。冷や汗かかなくなったやつから、どんどん死んでいくぞ。自分を騙すな。死ぬな。

 

というわけで時間が来たのでこの辺で今日はおしまい。次の更新は、いつかわかりません。明日かもしれない。もう来ないかもしれない。

 

おやすみ。

 

Ending Song

稲葉浩志「愛なき道」

 

大学の春と震災。

 

大学の事を書いておきたい。

 

すべて愚痴になるので、読みたくない人はここでおしまい。

 

わたしが大学に入学した年の3月に東日本大震災が起きた。4月に入学する予定だったわたしの入学式は中止となり、授業の開始も5月からに繰り越された。ニュースでは、数多くの人がボランティアのために東北へと遠征をしていった。わたしはそういう人たちを「すごいな~」と思う一方どうしても自分はやりたくないと思った。

ある授業で先生がわたしたち学生に叱責した。東北へボランティアに行け!という趣旨だった。その瞬間わたしは意地でも東北にボランティアに行かないことを決めた。

その先生は無責任だった。ボランティアに行けと簡単に言うけれど、その間の授業はどうするのか。交通費は誰が払うのか。滞在中に使用するスコップなどの準備は誰が用意するのか。本当に無責任だと思った。こういうなんにも想像できない人が大学の講師をしているのかと思うとうんざりした。

 

2011年3月から2017年1月まで、震災のことを忘れたわけではなかった。ただ、わたしは東北に親戚も友人もいなかった。ボランティアをしようにも顔が見えなかった。ボランティアに行くためのツアーは、2011年の大学初めての夏休みにもあった気がするが、インターネットで要項を眺めながらさらさら行く気にはならなかった。

 

悩んだ時期もあった。周囲の学生の中にはボランティアに行く人もいた。その中でわたしはどうしても行きたくなかった。どうして行きたくないのか、そのもやもやはずっと続いた。そのもやもやはわたしの中で次第にくすぶって、わたしをこんがらがらせた。

 

例えば、バスの中や電車の中で老人に席を譲ることをしなくなった。なぜかはわからない。譲ろうと申し出て、断られ、「いや、いいですから」と、押し切って、「ありがとう」と言われて座ってもらうまでの一連のお決まりのようなものがめんどくさくなったのかもしれない。

 

大学1年生はボランティアに行くかどうかということが脳裏の片隅にちんまりと場所を取って暇を見つけては悩む一年だった。

 

それでは今日はこのへんでおしまい。

おやすみ。

 

Ending Song

くるり「Remember me」


くるり-Remmber me / Quruli-Remember me