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さよならオーバーグラウンド

愛なき道を行け。

プラクティカル純情的百合

わたしは百合が好きなのですが、なぜ好きなのかという言うと、気付いたらそうだったのだけれど、大学生になってから気がついた。たぶん高校生の頃からそうだったのだと思うんだけど、環境的に知らなかったし、触れてこなかったので、気が付かなかっただけだと思う。なんだか性の目覚めみたいですがそういうのともちょっとちがいます。

 

なぜ好きなのか理由になっていないので上記のような文章は悪文である。

 

わたしはこういうとすごく嫌なやつだと思われるけれど、美しい女性が好きで、別に性的にどうとか、付き合いたいとか思うわけじゃなくて、自分の彼女には秘密にしていたのだけれど、心の底で美術品を見るような目で、クラスの美人や、電車でたまたま一度きり見かけた人などを見て美しいなあと思っていた。そんなこと口が裂けても彼女には言えなかったけれど、本当にただきれいだなあ、すごいなあとぼんやり思っていたのが高校生。

大学生になって、本棚でふと手にした漫画を読むようになって、百合にはまった。それが志村貴子さんの『青い花』だった。誤解が生まれそうなのであるけれど、わたしはつねづね女性が男性を好きになるというのが不思議でしょうがなかった。99%の男は汚いし気持ち悪いし、汗臭いし、とにかくオエって吐き気を催すようなものの塊なので(もちろんわたしだってその例外ではない)、なぜ女性たちが男を恋人にしたがるのかわからなかった。そして、独占したり奪い合ったりするのかわからなかった。もっと美しいものが眼の前にいるじゃないかと思っていたけれど、まあ、わたしは女性ではないし、女性も男と同じ人間であって、心は似たようなことを考えたりするし、女性同士の争いなんかもあるし、そんなこと言ったら男だって暴力振るうことだってあるわけで、どっちもどっちだ。でも、わたしは女性という器が、まあ、ようするに身もふたもないけれど女体が綺麗だなあと思っていただけで、その人の精神性や、人格や、名前とかどうでもよかった。あとは、社会的に規定された化粧とか、髪型とか、服装とか、そういうもの。男がしたら変だと思われるものが羨ましかった。芸能人とかモデルとか、フォトジェニックにならなくちゃいけない人たちは別にして、サラリーマンの男性が通勤でファンデーションしてチークしてリップ塗ったらなんか奇妙なやつだと思われるし、髪型だって、一般的には短いほうが、男性は清潔的というか、さっぱりしていていいというイメージがあり、ボブやロングの髪型の男性というのは比率で考えれば体感では少ないと思う。ロングスカートを日常的に履く男の人は大学には普通にいたけれど、サラリーマンのフォーマルな格好としてはちょっとダメな気がする。だから、そういう女性的なものがわたしはとてもいいなあと思い美しいなあと思っていた(女性からしたら化粧をめんどうだと思う人もいるだろうし、やはりそこにいろいろな意見を持つ人がいるのは知っています)。わたしはだからといって、女性的な記号を身にまとわない女性が美しくないとか、ダメだとか思うわけではなくて、そういう人は自分の好きにすればいいわけで、だれから許されるとかそういう許可なんか必要なく好きな格好を好きなように自由にすればいいと思う。間違っていると言う人がいるなら間違っているのはその人の方で、誰もその人の自由は奪えないのであるよ。(世間的に声高に言われている「女子力」なるものはさっさと死語になってほしい)。

大学では、宝塚のオタクの女の子とちょっと仲良くなったことがあった。彼女にはシンパシーを感じたのだけれど、あるいは勘違いだったかもしれない。

Ending Song 

さよならポニーテール「ビアンカ

夢のはざまtoデカダンス

深夜に食べるものはなんでもおいしいけれど、あれはたぶん背徳感があるからで、背徳感というのは、してはいけないことをしているときに感じるもので、してはいけないという刷り込みは幼少の頃からのしつけなどで出来上がる。ようするに、しつけを破る法悦がスパイスになるから真夜中に食べるものは、うにいかでも、すあまでもなんでもおいしい。でもまあ、ああいうのはたまにやるからおいしく感じるのであって、毎日やっていれば慣れてくる。

 

うつが激しい大学四年の頃を思い出す。あの頃のわたしは再現がなく狂うことを自己目的化し、身を滅ぼすように自分を追い詰めていった。今思えば、処方されていた薬のせいじゃないかと思うのだけれど、わたしはやたら甘いものを食べていた。それまで、甘いものなんて無縁の人生だったのに。いきなり、しろくまのカップアイスを毎日食べるようになった。当然太った。食べてみればわかることだけれど、コンビニのしろくまのアイスはめちゃめちゃ量が多くて、甘くて、今じゃ食べきることが無理なくらい、それはもうデブ志向な商品だった。ただ、あの頃はそれだけがわたしが部屋の外に出る理由だったし、それだけが生きがいだった。

 

大学3年生の頃の目標は大学院に進学することで、それを見据えて準備を進めていた。果たしてそれが自分のやりたいことなのかはわからなかったし、大学院のその先もぼんやりとしか見えていなかった。自分に才能が、というか要領のよさがないこともうすうす気がついていたし、苦労することは目に見えていたけれど、泥水をすすってでもその道を行くのだと覚悟していた。予定通りには行かなかったけれど。

 

今、2017年、わたしの立ち位置を整理しなくてはならない。わたしはまるで人が変わったかのように、好きなものが変わった。それまで、専攻していたものからは大きく離れたものが私の心を掴んでいる。いや、そんなには離れていないのかもしれない。ただ好きなものの本質は変わらない気がしている。容器が変わっただけだとも言える。

 

いずれ詳述するつもりだけど、今は具体的になにを考えているのか書くのは控える。

 

ただ、今も諦めているわけではない。研究者の道という険しき山脈を、わたしはまだ視界の隅に捉えている。

 

散らかって書いたけど、あくまでメモだから。

それじゃあ、今日はこのへんでおしまい。おやすみ。

 

Ending Song

新垣結衣「heavenly days」

奪え。たとえ引き裂いても。

 

恋愛に関して世間一般で言われているキモいことはあらかた経験してきた。自分でやったことが9割、されたことが1割。モテる人間はその分失敗しているのだとも言える。

例えば、LINEで告白。してはいけないことの典型的な事例だ。わたしのころはメールだったけれど、みなさんはメールで告白したこと、あるいはされたことありますか。わたしはある。したこともされたことも。めちゃめちゃ後悔するのでやめたほうがいいですよ。振られても付き合うことになっても。なんでかと言われても、ちょっと伝えづらい。メール独特の予防線を張る技術みたいなものが、相手にも薄々感じられて「あっ、この人わたしに告白するだな」と察してしまうわけです。よほど無関心でない限り。

恋愛において告白なんて悪手だとわたしは思う。告白しなくてはならない状況になった時点で、あなたはもうそれ以上相手との距離を詰めることはほぼ無理だ。あなたはいろんな手を使って、あれやこれやと相手の喜ばせたいと思っていろいろしても相手が喜ばないときにえいやっと一気に相手の喉元をきりさくつもりで距離を詰めるために告白するのである。当然モーションが見えれば相手は警戒する。

告白というのはある種の賭けだ。自らの生傷を見せることだ。相手はうまくいけばもしかしたら傷をやさしく守ってくれるかもしれないけれど、もしかしたら生傷をえぐってくるかもしれない。血がうるうると滴り、肉が真っ赤に見えている。そんなグロテスクなものを見せてもなお相手が好きだと言ってくれるなら、それはあなたの賭けが成功したというわけだ。でも、じっさいはキモいと言われるし、そもそもそんながっぷり四つの告白なんてそうそうなくて、「今、彼女いる?(^^)」みたいな気持ちの悪い予防線を張った上で、つまり自分の一番弱いところを見せずして相手の気持を知ろうとする愚か者がいるばかりだ。相手に恋人がいるかどうかなんて知ったことか。恋人がいたとしたら何だ。お前は諦めるのか。おまえの気持ちはそんなものか。そんなことで諦めきれる程度のものか。奪うんだ。奪って自分のものにしてみせろ。そんな気概のないやつが誰かに好かれるわけがない。相手の恋人のことなんて知ったことか。正々堂々その相手の前で懇意のその人を自分のものにしてみせろ。その覚悟を示せ。

とはいえ、痴情のもつれはやはりめんどうで、告白は最終手段なので、そもそも告白なんてせずに仲良くなるのが一番良いとわたしは思っています。時間はかかるけれどね。

というわけで今日はこのへんでおしまい。おやすみ。

 

Ending Song

スピッツ「子グマ!子グマ!」

 

かなぐり捨てても最後は愛。

言葉だけの関係にとても落ち着くことがある。ツイッターの話。

わたしは普段、ほとんどリプライというものをしないので、なかなか関係が築かれることがないのであるが、それでも察しのいい方はなかよくしていてくれて本当にたまリプライを交わしている人もいる。人といっていいのかはわからない。画面の向こうには生身の人がいるのだというつもりでいるけれど、実際にわたしが見ているのは文字だけで、もしかしたらbotかもしれない。自撮りだって本人なのかは実際のところわからない。それほどわたしはその人を知らない。この先会うこともないだろうと思う。相手には相手の人生と大切な人がいて、そこにわたしがこの先含まれるわけがないし、人間にはキャパがあり、その限界を超えて交友関係を持てないので、(というのは情が移れば切りづらいし疲れるから)、あえて深く関わらないし関わらないということだ。わたしはその人が文字越しに頑張っているのを見て、心から応援している。とはいえ、その人に対してなにか支援ができるわけでもなく、ただ思うだけだけど、そのくらいの距離でいいと思っている。わたしはその人のハンドルネーム以外ほとんど何も知らないのに、こんなに無理せず元気でいてほしいな、もっと幸せになってなと思うのは、はたから見て気持ちが悪いのではないかと思い、言わない。本当はお仕事無理しないで、元気でいてくださいねと伝えたいけれど、余計なお世話だし、24歳の大人がすることでもないので。そもそも、その人はわたしの応援なんてなくとも充分幸せだし元気だし、まじで余計なおせっかいの独りよがりになってしまう。そして本当に、わたしはきもいクソリプ野郎になってしまうので控えている。

 

ところで、わたしは今まで友人というものに本質的に向き合ってきた。特に理由もなく、席が近いからとか、たまたま委員会で一緒になったとかそういう理由で友人を作り卒業しては関係が消えていった。でもそういう人たちが、わたしの中で消えてしまったのかというとそうでもなくて、なんだかんだと思い出され、恥ずかしくなることもあれば励まされることもある。いまだにムカつくことだってある。わたしの中で友人たちは今も活きていて、わたしの人格を構成している。もう二度と会うことはないけれど。

 

追記

上記の応援している人だけれど、このブログを読まないと思うので書いてしまうけれど、わたしはめちゃめちゃ大好きだし、本当に元気でいてくださいねと思っている。キモいから言わないけれど。実際に会ったらがくりと恋に落ちてしまうかもしれない。落ちないかもしれない。いずれにせよ、わたしは現実を見なくてはならない。片思いになるのは明白だし、今だって片思いしているし。でもそんなことおくびにも出すつもりはない。でもたぶん、この気持ちは恋よりも愛に近いと思う。会ったこともない相手に、元気でいてねと思うのは愛だ。

この文章を書いていて、本当に久しぶりに人に対して寂しいと思った。友達がほしいな。でも、友達のなりかたを忘れたというか、友達になるには友達がいなくちゃいけないところもあるので、難しい。まあ、自分自身に自信がないのだと思う。幻滅されるというのが一番恐ろしい。

 

なんだか16歳の高校生が深夜に書いた文章みたいになってしまった。明日の朝後悔するだろうな。

それじゃあ今日はこのへんでおしまい。おやすみ。

 

 

Ending Song

パスピエ「月暈」

 

 

背に腹はかえられない日和。

 

役に立つという言葉にうんざりというか、食傷気味というか、聞くたびにつらい気持ちになる。

役に立つという言葉を人に使うことにちょっとした抵抗を感じる。

なんでそんなめんどうなことを感じたのかというと、祖父母の介護をしていて、老いの末路を見たからだ。

赤ん坊に「役に立つ」という言葉って使いますか。わたしは使わない。老人にも同じようなことが言える。要介護5の祖父は一人では食べることも、排泄することもできない。祖父だっておんなじ人なのに、祖父を前にして「役に立つ」という言葉は虚しい。

役に立つという言葉を使うことに抵抗があるというよりも、役に立たないことがそのまま死につながりうるこの社会はとても生きづらいなと感じただけだった。役に立たなくても生だけは保障されなくちゃそりゃ苦しいわと思う。ましてや、「社会の役に立たなくて食べていくことができず死に至るのは自業自得」となったらもうそれは受け入れられない。でも、「役立たずは死んで当然」と平然と言う人も中にはいるんじゃないかな。一理ある。でも、「わたしに限って大丈夫」とか「わたしは誰の世話にもならない」とかそういうのははっきり言って無理である。公的なものにしろ、民間のものにしろ、誰だって何かしらの世話になる。絶対になる。我が家はいまのところなんとか破綻せずにいるけれど、それは収入がいくらかあるからで、生活保護受給者でなおかつ認知症となったら破綻するだろう。認知症ばかりは誰だってなるし。そもそも、オレオレ詐欺とかで高齢者がターゲットにされて狙われるのは、高齢者になれば、誰だって認知機能は衰えるので、その隙を狙っているのである。わたしの祖母もあやうく詐欺に引っかかるところの寸前までいった。本人はもう忘れてるから、オレオレ詐欺の被害のニュースを見ると、被害者のことを「馬鹿だね~」と鼻で笑っているけれど。

 

マツコ・デラックスさんは、老いたらお金ですべて何とかするしかないとある番組で言っていたのを耳にしたけれど、本当にそう。いつかのためと思って貯めておいて役に立つのはお金くらいしかないのではないか。

 

話がそれたけれど、人に役に立つかたたないかという物差しで判断するのは別にかまわないけれど、それで役に立たないからといって生きることすら許されない世の中は嫌だなあという話でした。まあ、弱者ベースの世の中のほうがいいよということ。それは、他人のためにというよりも自分自身のために。「なんで自分の金が自業自得の他人のために使われなくちゃならないんだ」と思っている人は、その言葉がそのままブーメランになって返ってくるリスクも考慮しなくてはならない。

 

去年、重度の障害者を何十人も殺傷した事件があったけれど、もし加害者の彼の理論がまかりとおって、「何の役にも立たない人は殺してもよい」ということになると、彼自身もその理論から免れられない。もしその理論で世の中が回っているのなら彼の順番はすぐに回ってくるだろう。残念ながら。

 

予備校時代の恩師は、人生で一番重要なことは、誰かの役に立つことでも、そのために働くことでもない。遊ぶことだ。と言った。先生は英語の授業そっちのけで遊ぶことの重要性について語っていたけれど、数年して、遊びすぎたのかクビになったようです。でも先生はしぶといひとだからどこかで生きていると思うけど。

 

それじゃあ今日はこのへんでおしまい。おやすみ。

Ending Song

BUMP OF CHICKEN「グロリアスレボリューション」

せめて一人でいさせて。

歌を歌うことが好きだ。ハミングとか、歌詞の一節をつぶやくとかそんなおしゃれなものではない。好きな歌を怒鳴るように歌う。カラオケには行かない。自室で、お風呂場で、キッチンで、リビングで、好きなように歌う。田舎に住んでいるからか、幸いご近所からうるさいとクレームを受けたことはない。あるいはそっと耐え忍んでいるのかも。だとしたら申し訳ない。歌うのは好きだけれど、人に聞かせられるものではない。高い声はつんざくように割れて金切り声になるし、そもそも声質がひどい。わたしの地声は低いうえにぼそぼそしているので、人前で喋るのはあまり好きではない。テニススクールに小学生の頃通っていたのだけれど、声が小さくぼそぼそしゃべるからもっとハキハキしろとめっためたに怒られたことがある。歌うことが悪い癖みたいになっているので、誰もいないとつい歌いたくなる。一人きりのエレベーター、誰もいない公衆トイレ。限界を試すかのように、つい小声で歌いたくなる。実はトイレの個室が閉まっていて危うく聞かれるところだったということもよくある。いつからこんなふうになっていたのかはわからないし覚えていないのだけれど、いつだったか親から、お前は小さい頃からトイレに入ると一節歌い終えるまで出てこなかったと言われた。さすがに話を余計に盛っていると思うけど、たしかにそうだったかもしれない。

 

ところで、歌と一括りにいっても、なかなか歌いづらいものもあって、ビョークシガーロスはリズムも音程も覚えづらくて歌いにくいなあと思う。書いていて、めちゃめちゃ上から目線ですけど、普通に好きなので聞くことは聞きます。

 

裏声がいくらでも高く出せるので、女性のボーカルの声は裏声で歌うのだけれど、親に聞かれると恥ずかしく、鉢合わせして気まずくなることが最近よくある。

 

どうでもいいけど、JPOPの歌詞で、よく、メタ的な歌詞があるんですけど、もにょる。

 

とりとめないことを書いてしまったけれど、今日はこのへんでおしまい。おやすみ。

 

Ending Song

きのこ帝国「スクールフィクション」

バーンアウト・エウレカ・スパークリング。

エウレカ

ようやく気がついた。わたしは大学在学中から調子を崩していたのだけれど、あれはバーンアウトだったのだ。

いや、言い訳をしたいわけではない。一年休学して、5年かかって大学を卒業したことは、あれはちゃんとしたわたしの実力で、自慢とか謙遜でもなく、ただ事実として卒業証書がある。

他の人がどうなのかわからないけれど、わたしも人間の端くれなので承認欲求というものがある。誰かに認められたい、褒められたい、そういった感情は普通にあった。

わたしには学校というものが向いていなかったなと思う。学んだものもいっぱいあったけれど、教師というものがいかに人間の醜悪な部分をこれでもかと煮詰めて凝縮させたものだったかを思い知らされた。高校時代の頃や大学時代の頃の自分に、頑張らなくていいのだと伝えたい。誰かに迷惑をかけようと、誰かがそれで損をしても、困っても、別に自分は関係ないのだと言いたい。自分は他人に関して責任はないし、お前が助ける義理はないのだ。

 

わたしが今友人が一人もおらず、一人ぼっちであることはツイッターなどでも言及したことがあるかもしれないけど、学生時代からぼっちだったわけではなかった。むしろ友人はめちゃくちゃ多かった。フェイスブックの友人リストもLINEの友人も果てしなく多かった。交友関係は幅広く他大にも及んだ。もちろん、その中には形だけでほとんど連絡を取らない人もいたのだけれど。

なぜわたしに友人が多かったのかというと、幹事をやっていたからだと思う。必然的に他ゼミの人と連絡を取り合うし、ゼミ内でもみんなの連絡先とメーリスを管理してた。もちろん、他の人に手伝ってもらうことも多かったので、そういう人間関係から友人になるのは自然だった。友人を作ることに悩んだことは人生で一度もなかったと言ってもいい。保育園、小学校、中学校、高校、大学、どんな場面にも友人たちがいた。何人も顔は思い浮かぶ。あるときはクラス代表、あるときは学級委員、あるときは部長、幹事、学校に関わる役職はありったけやった。出来る限り。なんでそのときどきでそんな行動を取ったのかはわからなかった。誰から押し付けられたわけでもない。自らすすんで自分を追い込んでいったのかもしれない。

今だからわかることだけれど、あれはある種の褒められたい、認められたいというシグナルで、その飢餓感に苛まれていたのかもしれない。でも、まあ、それは自分勝手で押し付けがましいおせっかいに思われていた気がする。誰からも褒められないから、もっと頑張るという悪循環。わたしはいつのまにやら、「いつになったら誰かが褒めてくれるんだ」というチキンレースに自分を駆り立てていた。そして、誰からも褒められず、感謝されないことに自己嫌悪して、「自分の努力がたりないんだ」と、もっともっと自分を追い詰めていったのだった。

大学4年の春にそれははじけてしまった。ちょうど就活に全失敗して、この先どうしようかなと思っていた頃だった。それは「朝起きられない」というところから始まり、不眠、過食、パニック。侵食していった。それから正味一年半、学校には通えなくなった。その間何をしていたのかというと何もしていなかった。日の当たらない真っ暗な一人暮らしの部屋で布団にくるまり、寂しさをつのらせ、孤独をこじらせ、ぼんやりしながらまどろんでいた。何もする気が起きなかった。親の心配をよそ目に、飲酒量が増え、体重が17キロ増えた。眠ろうにも脳内で過去の後悔たちが際限なく会話をしてうるさくて眠れなくなった。部屋を出るのは目の前にあるコンビニに行くときだけで、バイトもやめた。ようやく体調取り戻して大学を卒業できたのは去年の春のことだった。

 

そうして、今、わたしはここにいる。今のわたしはちゃんと眠れているし、体重も17キロちゃんと減らした。散歩して、陽光に当たり、体調もすこぶる健康だ。家の家事を主にして時間を過ごしている。洗濯、ゴミ出し、風呂掃除、ねこのご飯。その他もろもろ。だけど、それで今は精一杯だ。今の生活を維持するので精一杯。フルタイムで働くのはおろか、週3でパートタイムで働くのだって今はきつい。でも、楽しかったことをちゃんと楽しめるようになれたし、まあ、なんとか生きている。

唯一、まだ治せていないのは本を読めていないところだ。それについてはまた別の機会に。今日はこのへんでおしまい。おやすみ。

 

Ending Song

Galileo Galilei「ボニーとクライド」