さよならオーバーグラウンド

愛なき道を行け。

わたしにとってのピカチュウとは。

「さよならなんて寂しいこと言うなよ」という有名なセリフをなにかの物語で聞いたか読んだか。まあ、なにを書くかなんてわかりきっていて、要するに「わたしはそうは思わない」ということだ。井伏鱒二は「さよならだけが人生だ。」と言ったらしい。そのとおりだとも思わないけれど、わたしの人生はいつの間にかさよならだらけの人生になってしまっていた。寂しい気持ちがないわけではないが、かといってそれが辛いわけでもない。寂しさは暇つぶしになるし、たまにはキャンディのように舐めてみたり、たまには石ころのように眺めてみたりできる。髭が伸びるとついついいじってしまうようなものであるね。無数のさよならの先にあるものもまたさよならである。固く結ばれた絆があるとは思っていない。わたしは記憶力が曖昧なのでいろいろな人が混ざっているのを承知で書くが、関わった人をすべて思い出せる。いろいろな思い出や気付きの燃焼のあとに残った灰である。いらないものなので捨ててもいいのだけれど、べつに場所をとるわけでもないので捨てていない。

 

わたしにはいじめられた経験がある。無視されたことも集団で殴られそうになったこともある。部員全員から「死ね」という連呼のメールを受け取ったこともある。

 

はたまたわたしはいじめた経験もある。無視されれば無視し返したし、殴られたら徹底的に殴り返した(わたしだけが先生にこってり絞られたのは未だに腑に落ちない)。「死ね」と言われたときはきっぱり部を辞めて請け負っていた雑用をすべてほったらかした。

 

わたしには楽しい思い出がある。ゼミの仲間と浜辺でバーベキューをした。原発予定地のデモを見に行った。いろいろな思い出のある仲間たちともさよならしてきた。

 

わたしはつねづね自分でも不思議だった。なぜわたしはこんなにも人と縁を切りたがるのか。ある一定期間を超えるとお腹がいっぱいになってもう会うことも話すこともしなくていいやと思うリミットがあるのだ。べつに相手のことを理解したわけじゃちっともない。

なんていうかソロ活動だと思うことにした。今はソロ活動期間だ。仲間が欲しくなったら、また新しい仲間と、冒険する。

 

今書いてて思ったけれど、アニメのポケモンのサトシみたいじゃないですか?シリーズが一区切りするごとに冒険の仲間たち、ポケモンたちを博士のところに預けてまたは逃がして、ピカチュウだけを残して、またあらたな人間関係の中にダイヴする。それでもピカチュウだけは相棒として連れていく。わたしにとってのピカチュウはなんだろうか。それはたぶん一つには絞れない。わたしという人格や経験は蓄積して、どんどん積み重なっていく。たぶん、それがわたしの相棒。経験。たぶん。

 

それじゃあ今日はこのへんでおしまい。おやすみ。

 

Ending Song

Galileo Galilei「Imaginary Friends」

Base Ball Bearの季節。

Base Ball Bear にはまったことがあるだろうか。わたしはある。ベボベの歌う歌詞についてちょっとメモをして寝たい。

 

ベボベの描く歌詞。具体的には小出さんの書く歌詞は、とても甘酸っぱいレモンの香りのする青春だ。それは、初期の「CRAZY FOR YOU の季節」からずっとそうだ。ベボベは昨年結成15年。メジャーデビュー10周年を迎えた。デビュー当初から彼らは、学生時代の青春についてばかり書いている。もちろん、そうじゃない曲もあるけれど、普通のバンドは成熟していくにつれて歌詞も具体的な物語から普遍的なメッセージに変わりがちだし、それは、成長であり、やはり青臭い曲からの変化である。例えば、BUMP OF CHICKEN。散文的な寓話集のような「THE LIVING DEAD」から、もっと抽象的で詩的な「Butterflies」へと変化していった。わたしは「GOOD LUCK」という曲が好きなのであるが、はっきり言って何を言っているのかわけがわからない。全然わからない。好きですが。それに比べたら「グロリアスレボリューション」なんて直接的である。サウンド面の変化には明るくないので触れないつもり。

 

話を戻そう。ベボベである。ベボベは10年たってもなお初々しいような青春を描いている。これはどういうことなのだろう。ベボベが変化していないわけではない。むしろどんどん、シンプルに削ぎ落とされ進化していっている。その集大成が「C2」であった。ベストアルバム二枚目も出た。初期メンバーのギタリストの思わぬ脱退というバンドの危機さえもチャンスにして様々なギタリストとのコラボレーションという形で素晴らしいライブを全国各地で繰り広げた。とんだ食わせものである。素晴らしい。ベボベは進化している。しかし、その歌詞は過去を懐古的に懐かしむように、青春について執拗に書いている。それは、タイアップとかバンドイメージとかもあるのかもしれないけれど、もっとしっかりした理由を、わたしは個人的には納得する形で見つけた気がする。それは、青春を書きながら、裏メッセージとして脈々とつながっているものである。むしろ、バンドがこうして長く続いているからこそ、その透徹としたメッセージの輪郭を見ることができる。それは「どんなに汚れても汚れない無垢」である。

 

(ここで「君はノンフィクション」が流れる。みなさまご清聴ください。ベボベ禁じ手のシンセを使った素晴らしい曲ですよ。)

 

わたしたちはいつまでもSCOOL OF LOCKを聞いているわけではない。聞いている人もいるかもしれないけれど、想定されているリスナーは10代、ティーンエイジャーで、その層が聞く音楽や商品がその時間は流れている。いつかは卒業してしまうその時間を、ベボベは歌い続けているのだ。社会人になり、学生時代を遠く懐かしむようになって、なお心になにか感じるものがあるとしたら、それはすべてベボベの曲にある。

 

ただ、ベボベだって成長している。ときには青春の視点は「そんなに好きじゃなかった」や「不思議な夜」に代表されるように、地に足ついたというか現実の彼らの20代後半から30代の人々が体験するようなことも短編小説のように綴られる。そんなとき、ベボベと学生時代の青春の距離はどんどん遠ざかって、彼らも大人になったのだなと感じる。(「29歳」というアルバムも出しているし)。ところが、10代真っ盛りみたいな歌詞を今でも書けるのがすごい。「short hair」や、「PERFECT BLUE」。「文化祭の夜」なんて、わたしが体験した文化祭のあとの後夜祭の雰囲気にそっくりだ。(とはいえ、「文化祭の夜みたいなあの気持ち”カミングバック”」と歌詞にはある)

 

「汚れてる」は言いすぎた。でも少なからず、わたしたちは学校の外へと、社会に出て、純な気持ちをちょっとはこっ恥ずかしく感じるようになっていないだろうか。それを代弁してくれるのが我らが代表ベボベである。今の10代はベボベなんて聞かないのかもしれない。ワンオクとかラッドを聞くのだろう。時代は移ろう。ガラケースマホになり、メールがLINEになったように。それでも変わらない気持ちがあるとしたらそれはベボベが歌ってくれている。

最後に、ほんのちょっとだけ、サウンドについて触れたい。彼らは流行なんて関係ないかのように、シンプルなギターロックを演奏し続けてきている。例えば流行に敏感で時代とともに変化して爆発的にヒットしたのはB'zである。シンセからハードロック、ピアノのみのバラードまで。ところがベボベはどうだ。何でもいいからアルバムを聞いてみてほしい。どれも徹底的にギターロック。ギターロックという制約の中でも虹色のバリエーションを描いている。本当に素晴らしい。天才的なサウンドだと思う。でもだからこそ、歌詞が生きる。誰が聞いても「ああ、このリズム、この音、この歌詞はベボベだな。」と誰が聞いても思う。(雰囲気はGREEN DAYにちょっと似ている)。ベボベのサウンドと歌詞は普遍性を獲得しつつある。もし100年後に2000年代、過渡期の日本の学生文化とJPOPについて論じる研究者や院生がいたら、論文に引用されるのはまず間違いなくベボベだろう。なぜならベボベはまっすぐに当時の雰囲気をさまざまな角度から切り取って緻密な歌詞と研ぎ澄まされたサウンドによって学生の無垢という概念を歌にしているから。言い換えれば、誰もが感じる「あ~あの頃ってあんなだったよね~」という当時の無垢さを真空パック、チルド冷蔵のようにそのまま産地直送で歌にしているのだ。

 

例えるならベボベはタイムトラベラーだ。彼らの演奏は、老若男女全員を(その瞬間だけでも)ティーンエイジャーにしてくれる。

 

誰もが通るベボベの季節について書きすぎてしまった。今日はこのへんでおしまい。おやすみ。

 

Ending Song

Base Ball Bear 「senkou_hanabi

ありふれたオリジナル感動編

そうそう。映画やドラマに感動しないほうだ。そもそも映画やドラマを見ないせいかもしれない。本だったらどんなに怖いホラーもスプラッタがときたま出てきても平気だけれど(好んで読むことはしないけど)、映像はダメだ。訴求力が文字とは比べ物にならない。本だったらページをめくることで飛ばすことができるし、思い浮かべなきゃいいけど、映像はわたしの脳内に無理やり場所を陣取り、恐怖とか痛みを司る部分の扉を強引にこじ開けて、神経を刺激してくる。ちょっとしたサスペンスの出血シーンも耐えられない。血が出ることがわかりきった時点で、もう見続けることができない。アニメでもたぶん無理かもしれない。血恐怖症のせいで、間口を狭めているのかもしれない。結局、見るのはジブリとか、日常系とか、ヒューマンドラマ的なものに限られてしまう。SFの映画は当たりハズレが大きく、あまり見ないし。というわけで、その向こう側にどんなに感動的なクライマックスが待っていようと、わたしは頭の中の出血センサーがアラームを鳴らすとそこで画面を停止してディスク取り出し一生見ないことになるのである。

血がどうしても必要な物語というのはそこまでないように思う。

 

あんまり筆が進まない。

わたしたちは同化しすぎではないかと思う。いろんなもののなかに自分がいるかのように振る舞うから、感動しなくなるのだ。箸の持ち方のようにわざわざ矯正しなくていいことまで真似しちゃう。わたしたちはマナーとかめんどうな所作とかもいろいろあるし、結局隣の人の振る舞いを見ちゃうのだ。

 

パスタをラーメンみたいにすする人がいてもいいということではないですよ。それはマナーだから。すすっちゃだめ。

 

たとえば、他人の悪口ばかり言う人。そんな人のことをどう思いますか。嫌なやつだなとか関わりたくないとかではないです。そういうのを撲滅したいと思う人もいるかもしれないけれど、美しいなあと思う人がいてもいいのではないかということです。最果タヒさんの本を読んだ感想が混ざりました。受け売り。

 

気づき。心のなかに探していた自分を見つけたときに、その居場所をずっと占めてほしいと思っていたその場所を埋めてくれるものに出会ったときにわたしは感動する。でもそれはたぶん、みんなとおんなじということだ。感動とは同化。だからあえて感動しないというわけではないけれど、わたしは物語に感動するということが全く無くそれをコンプレックスに感じていたけれど、それってある種の独自性ではと思う。

 

映画の中にもドラマの中にも、漫画の中にも、小説の中にもどこにも自分を見つけられないのだとしたら。そのあなたの考える自分は独創的なあなただけのオリジナル。たぶんね。大切にしよう。

 

Ending Song

Base Ball Bear 「スローモーションをもう一度 part.2」

それでも残る感触ver.1.1

ずっと自分は孤独なのだと思っていた。どんなにたくさんの友人に囲まれても、孤独はわたしを監視して、少しでも友情みたいなもやもやしたものをつかもうとすれば、水をぶっかけてくる。それは飢えや乾きに似ていた。飢餓だ。砂漠に落ちた雫のように一瞬で蒸発する。それがわたしにとっての友情や恋心で、無我夢中で手を伸ばしてもすり抜けてしまうものだった。そして、孤独の奈落でしょんぼりして、三日月を見上げるのが日常だった。

 

今思えばそんなことはなかった。わたしはどこまでも孤独だったが、わたしだけが孤独だったわけではなかった。孤独を共有していたんだなんてそこまでは言えないけれど、自分勝手に高い城を築いて、そこからみんなを眺めていたのは確かだった。みんなそうだった。孤独の中で孤独だって言葉が口に出ないだけだった。見栄を張って、こっそりマカロンを作っていたようなものだ。

 

孤独がそうだったように、わたしとその学友たちは、強いられていた。あるものを。いろいろなものを。感受性だったり、共感だったり、価値観だったり。わたしは学校というものが大嫌いだった。教師なんてゴミクズだと思っていたし、周りの学友なんて心の中では馬鹿だらけだと思っていた。見下していたわけじゃない。ただ、教師を軽蔑し、学友たちを哀れんでいた。なにより、この学校というシステムにうんざりしていて、何も得るものはないと思っていた。たぶん、村上春樹に感化されたせいだ。それから8年が経って、今も学校というものには反吐が出るけど。

 

押し寿司のようにぎゅうぎゅうに形にはめられたわたしとその学友たちは、作られた孤独を、作られた感受性を刷り込まされていたのだなと思うのだった。まあ、独創性とは社会性と引き換えなのかもしれない。大人になるためだ。

 

ところで、わたしの学校は「自由な校風」を売りにした進学校だった。制服も校則もなし。その中で怠惰になる人もいて、当時は偏差値が下がり、進学する大学のレベルの低下を生徒たちの努力不足にして教師たちは嘆いていたけれど、未成年の生徒たちに責任をべっとりなすりつけて、自分たちはなんにもわるくありませんというスタンスを取る教師たちは社会のクズだと思っていた。

 

教師がクズだという気持ちが確信に変わった事件があった。わたしが運動部の部長だった頃、私たちが使っていた運動部のグラウンドが、急遽仮校舎の建設に伴い使えなくなるということが発表されたことがあった。3年生の10月だった。わたしたちは抗議した。8月の時点で決まっていたことの発表を遅らせたこと、私たち生徒が主体であることを学校の謳い文句にしながら一切説明しなかったこと。そして、抗議する中で最も衝撃的だった一言によって、わたしはすべてを奪われた気がした。すべてを台無しにされた。3年生である私たち生徒に向けられた言葉だった。「おまえらもう関係ないじゃん」。驚愕した。たしかに私たち3年生はもう部活動を引退して関係がなかった。グラウンドが使えなくなっても私たちは困らない。でも、2年生以下の後輩たちは困る。それに対して、自由な校風の牙城をなんとか崩すまいと抵抗しているわたしたちに向けて、よくそんなことが言えるなと思った。それは、「自由な校風が伝統です」「生徒たちの主体的な行動が売りです」とか学校説明会で散々お前らがほざいてるのに反してるじゃないか。わたしの中で教師という存在がゴミクズになった瞬間だった。

 

何の話だっけ。そうそう。教師はクズということから何が言いたいのかというと、学校で感じる孤独も共感もいろいろな感情が作られたもので、自分だけが思っているものでもなくって、みんなそれぞれ同じことを思っている。教師もシステムというものにかわいそうなことに絡め取られていて、思考停止で動いている。残念なことに。

 

結論。高校生の君が感じる孤独も、感情も、全然価値なんてない。コンビニでも買えてしまうくらいだ。君は学校に居場所を見つける必要もないし、友達を作る必要もない。誰かに共感されなくちゃいけないわけでもない。とある教育実習生が、「高校の友人は一生ものだよ(だから大事にしようね)」なんて言ってたけれど、あれは嘘だ。今のわたしを正当化したいわけじゃない。すべてのものは消耗品である。友人も恋人も、裏切りも情熱も。歳を重ねて行くのだから。いずれ私たちは死ぬのだから。もしこれを読んでいる君が孤独を感じたら、疑ってみるといい。それがメディアや教育に作られたものじゃないかどうか。孤独という名のもとに共感していませんか。孤独って分かり合えないものなので、誰に言っても、たとえ日本語話者どうしでも相手に通じないという実感がある。わかりあえずに絶望しよう。絶望して、すべてを捨て去ろう。それでも何かがもやもや残るなら、教えて欲しい。たぶんその感触が君のアイデンティティになるかもしれない。ならないかもしれない。

 

ちなみにわたしはセックスしても恋人として付き合えるわけじゃないということを知ったときに絶望しました。セックスしても相手が自分のことを好きとは限らない。これも情報によって視野狭窄に陥った例です。

 

 

Ending Song

佐藤仁美「ポニの大峡谷」

(どうでも)いい人クロニクル

ボランティアについて私信を述べるところからはじめたい。わたしはボランティアが大嫌いである。ボランティアをするのは勝手にしたい人がすればいいと思うが、「ボランティアしませんか?」「ボランティアサークルに興味はありませんか?」と勧誘してくる人間は無間暗夜に全員葬り去ってきたくらいだ。ボランティアは人を成長させないし、深く考えさせられる何かもない。自分の金と時間と体力を、他人にいいように都合よく使い捨てられるだけである。ボランティアしたい人は勝手にしてくれ。勝手に使い捨てられて、薄っぺらな自己満足を手に入れろ。悪口を書いたつもりはない。

 

ボランティアで何か感じたり深く考える切っ掛けになったとか言ってるやつを見るとうんざりする。それまで、おまえは人生で何してきたんだよと言いたくなる。恩もないのに、ボランティアするのは本当に意味がわからない。

 

散々書いたけれど、15歳の自分にこれを読ませてやりたい。それからの高校三年間、正しいと思っていたことはすべて教育によって染み付いただけのもので、正しくもなんともないのだと言いたい。

 

わたしはいわゆるイエスマンだった。なんでもかんでも頼まれると嫌と言えずに雑用を引き受けていた。高校の頃は運動部の部長だったが雑用は全て自分でやっていた。でも結局誰からも感謝されなかった。むしろ、後輩含めて全員から罵倒されて終わった。結局部を去った。

自分に対して悲しいとか哀れだとは思わない。ただ愚かだ。わたしはむしろ率先して様々なことをやった。だがすべて結局のところ、わたし自身が疲弊するだけだった。わたしは認められたかったから、どんどんやったけど、ほんとうはやる必要なんてなかったのだ。

いい人はつまるところどうでもいい人だと何かで読んだ。善意なんてくそくらえで、なにかしても「いい人だね」と言われて終わる。

 

他人からされて嬉しいことをしなさいと習いませんでしたか?わたしはずっと信じてきたけれど、大学卒業とともにやめました。されて嬉しいことをしても誰もわたしにはしてくれないから。誰も気に留めず、むしろ余計なおせっかいになってしまうばかりで、結局のところわたしは邪魔者だった。

 

まあ、何を言うかよりも、誰が言うかか重視される世の中で、わたしの意見は少数派だろうけど、ボランティアで何かを引き受けちゃいけないということは自分に強く言いたい。疲弊して、最終的には本当に助けたい誰かを助けられなくなるから。

自己責任とは言いたくないけど、おのおのがた、ぬかりなく。としか言えないですね。

 

今朝、夢にめちゃめちゃ好みの女の子が出てきて今日一日楽しかったです。

今日はこのへんでおしまい。おやすみ。

 

Ending Song

Blur 「Song 2」

夢のはざまtoデカダンス

深夜に食べるものはなんでもおいしいけれど、あれはたぶん背徳感があるからで、背徳感というのは、してはいけないことをしているときに感じるもので、してはいけないという刷り込みは幼少の頃からのしつけなどで出来上がる。ようするに、しつけを破る法悦がスパイスになるから真夜中に食べるものは、うにいかでも、すあまでもなんでもおいしい。でもまあ、ああいうのはたまにやるからおいしく感じるのであって、毎日やっていれば慣れてくる。

 

うつが激しい大学四年の頃を思い出す。あの頃のわたしは再現がなく狂うことを自己目的化し、身を滅ぼすように自分を追い詰めていった。今思えば、処方されていた薬のせいじゃないかと思うのだけれど、わたしはやたら甘いものを食べていた。それまで、甘いものなんて無縁の人生だったのに。いきなり、しろくまのカップアイスを毎日食べるようになった。当然太った。食べてみればわかることだけれど、コンビニのしろくまのアイスはめちゃめちゃ量が多くて、甘くて、今じゃ食べきることが無理なくらい、それはもうデブ志向な商品だった。ただ、あの頃はそれだけがわたしが部屋の外に出る理由だったし、それだけが生きがいだった。

 

大学3年生の頃の目標は大学院に進学することで、それを見据えて準備を進めていた。果たしてそれが自分のやりたいことなのかはわからなかったし、大学院のその先もぼんやりとしか見えていなかった。自分に才能が、というか要領のよさがないこともうすうす気がついていたし、苦労することは目に見えていたけれど、泥水をすすってでもその道を行くのだと覚悟していた。予定通りには行かなかったけれど。

 

今、2017年、わたしの立ち位置を整理しなくてはならない。わたしはまるで人が変わったかのように、好きなものが変わった。それまで、専攻していたものからは大きく離れたものが私の心を掴んでいる。いや、そんなには離れていないのかもしれない。ただ好きなものの本質は変わらない気がしている。容器が変わっただけだとも言える。

 

いずれ詳述するつもりだけど、今は具体的になにを考えているのか書くのは控える。

 

ただ、今も諦めているわけではない。研究者の道という険しき山脈を、わたしはまだ視界の隅に捉えている。

 

散らかって書いたけど、あくまでメモだから。

それじゃあ、今日はこのへんでおしまい。おやすみ。

 

Ending Song

新垣結衣「heavenly days」

奪え。たとえ引き裂いても。

 

恋愛に関して世間一般で言われているキモいことはあらかた経験してきた。自分でやったことが9割、されたことが1割。モテる人間はその分失敗しているのだとも言える。

例えば、LINEで告白。してはいけないことの典型的な事例だ。わたしのころはメールだったけれど、みなさんはメールで告白したこと、あるいはされたことありますか。わたしはある。したこともされたことも。めちゃめちゃ後悔するのでやめたほうがいいですよ。振られても付き合うことになっても。なんでかと言われても、ちょっと伝えづらい。メール独特の予防線を張る技術みたいなものが、相手にも薄々感じられて「あっ、この人わたしに告白するだな」と察してしまうわけです。よほど無関心でない限り。

恋愛において告白なんて悪手だとわたしは思う。告白しなくてはならない状況になった時点で、あなたはもうそれ以上相手との距離を詰めることはほぼ無理だ。あなたはいろんな手を使って、あれやこれやと相手の喜ばせたいと思っていろいろしても相手が喜ばないときにえいやっと一気に相手の喉元をきりさくつもりで距離を詰めるために告白するのである。当然モーションが見えれば相手は警戒する。

告白というのはある種の賭けだ。自らの生傷を見せることだ。相手はうまくいけばもしかしたら傷をやさしく守ってくれるかもしれないけれど、もしかしたら生傷をえぐってくるかもしれない。血がうるうると滴り、肉が真っ赤に見えている。そんなグロテスクなものを見せてもなお相手が好きだと言ってくれるなら、それはあなたの賭けが成功したというわけだ。でも、じっさいはキモいと言われるし、そもそもそんながっぷり四つの告白なんてそうそうなくて、「今、彼女いる?(^^)」みたいな気持ちの悪い予防線を張った上で、つまり自分の一番弱いところを見せずして相手の気持を知ろうとする愚か者がいるばかりだ。相手に恋人がいるかどうかなんて知ったことか。恋人がいたとしたら何だ。お前は諦めるのか。おまえの気持ちはそんなものか。そんなことで諦めきれる程度のものか。奪うんだ。奪って自分のものにしてみせろ。そんな気概のないやつが誰かに好かれるわけがない。相手の恋人のことなんて知ったことか。正々堂々その相手の前で懇意のその人を自分のものにしてみせろ。その覚悟を示せ。

とはいえ、痴情のもつれはやはりめんどうで、告白は最終手段なので、そもそも告白なんてせずに仲良くなるのが一番良いとわたしは思っています。時間はかかるけれどね。

というわけで今日はこのへんでおしまい。おやすみ。

 

Ending Song

スピッツ「子グマ!子グマ!」