さよならオーバーグラウンド

愛なき道を行け。

世界を切り取るのは誰か。

小説の地の文が読めなくなって久しい。読もうとすると、お尻のあたりがかゆくなり、目眩がして、吐いてしまう。厳密にいつからかはわからないが、嘔吐まみれの文庫を山ほど捨てたのは覚えている。

地の文が読めないというのはどういうことか。例えば、「ある9月の晴れた朝のことだった。季節にしてはまだ早い肌寒い風の吹くホームのベンチで、シーモア・グラスはコーヒーを啜りながら8:49分発、ウェスタンヒル行きの列車を待っているところだった。待合室は、旅行客とスーツの客でごった返し、子どもは腹が減ったと泣き喚き、老人は次期大統領についての醜聞についてつんざくような大声で語り合っていた――」おまえは誰だ。主人公なの?著者なの?とにかく、恥ずかしい。自分で書いていても恥ずかしい。わたしは、とにかく、こういう文章が、美しいとか下手だとか(上記の例はわたしの書いた駄文ですが)以前に、読んでいてとても気恥ずかしくなる。じゃあ、こんなのはどうだろう。「僕の隣に知らない女が寝ているのに気がついたのは、陽光がビルの並びよりもわずかに伸びた頃だった。昨日のことはよく覚えていなかった。知らない友人の結婚式の後、バッティングセンターに行ってひとしきり汗をかいて、そのあと、一人で自分のマンションに帰ったはずだった。そういえば、帰りがけに男に声をかけられた。それ以降の記憶がなかった。体を起こすと、薄明かりに透けて、レモン色のパジャマを着ていた。もちろん、僕の服ではなかった。隣の女はすやすやと眠っていて起きる気配がなかった。体をこちら向きに丸めて、穏やかな寝息を立てていた――」止めて!ストップ!誰も何も言わないから止めようにも止まらなかった。こういうやつも鳥肌が立つほどに、おまえは誰だよと、言葉が口の端から飛び出そうになるのをこらえなくてはならない。

 

よくこんな想像をする。たとえば、ゲームがある。なんでもいいけど、できれば、一人称視点のものがいい。FPSのシューティングとかがいい。そういうゲームで、自分の世界は、その画面がすべてである。右を向けば、当然右の方向の世界が見えるが、左側にあったものは見切れてしまい見えなくなる。そのときに左にあるはずのもの。それは果たして存在しているのだろうか。ゲームじゃなくても現実でもいい。わたしは今机のラップトップに向かってこの文章を書いている。当然、ラップトップの反対側、つまり部屋の反対側は見えない。振り向いて、反対側を見ると、何もいない。おかしい。確かになにかがいた気配がするのに。もう一度振り向く。もちろん何もない。あるのは、ベッドと、テレビと、ソファだけである。そのときだった。テレビの電源が何の前触れもなく点いた。思わず振り向くと、画面は真っ暗なままだった。この部屋にはわたしとねこしかおらず、テレビのリモコンはベッドのそばのサイドテーブルにある。どうしちゃったのだろう。わたしは、ベッドまで行き、リモコンを取って真っ暗なままのテレビを消した。プツンと一瞬のかすかな閃光を残して、電源の光は青から赤に戻った。机に戻って文章の続きを書こうと思ったら、今度はラップトップの画面が暗転していた。おかしい。

 

何の話?

 

ゲームの画面が見切れたときにその見切れた部分は存在するのかって話でしょ!あやうく、心霊現象の話っぽくなるところだった。で、つまり、何が言いたいかというと、目で見えるものには限界がある。わたしは前と後ろをいっぺんに見ることはできないし、遠くのものを見ることもできない。また、とても小さなものを目視することもできない。目で見えていないものでも、たしかにそこにあるはずだ。でもそれは、ただ単にあるはずだと仮定して話を進めているだけだ。

地の文の話に戻るけれど、地の文が読めないのは、おそらく、そこに確かに残る明らかな切り取り方の偏りが、さも客観的なものですよと言わんばかりの顔でわたしに訴えかけてくるようにみえるからだ。わたしには見えているものしか見えない。なので、わたしが書く文章には、必ずわたしが書いた痕のようなものがあざのようにべったりと残るはずで、それは他の人の文章もそうである(はず)。だから、普遍的を装う(ように見える)文章を見ると、つい「しっぽ見えてますよ!」と言いたくなってしまう。

 

時間がだいぶ過ぎてしまったので、今日はこのへんでおしまい。まとまらなかったけどまあいいや。おやすみ。

 

Ending Song 

Rayons「Waxing Moon」