さよならオーバーグラウンド

愛なき道を行け。

バーンアウト・エウレカ・スパークリング。

エウレカ

ようやく気がついた。わたしは大学在学中から調子を崩していたのだけれど、あれはバーンアウトだったのだ。

いや、言い訳をしたいわけではない。一年休学して、5年かかって大学を卒業したことは、あれはちゃんとしたわたしの実力で、自慢とか謙遜でもなく、ただ事実として卒業証書がある。

他の人がどうなのかわからないけれど、わたしも人間の端くれなので承認欲求というものがある。誰かに認められたい、褒められたい、そういった感情は普通にあった。

わたしには学校というものが向いていなかったなと思う。学んだものもいっぱいあったけれど、教師というものがいかに人間の醜悪な部分をこれでもかと煮詰めて凝縮させたものだったかを思い知らされた。高校時代の頃や大学時代の頃の自分に、頑張らなくていいのだと伝えたい。誰かに迷惑をかけようと、誰かがそれで損をしても、困っても、別に自分は関係ないのだと言いたい。自分は他人に関して責任はないし、お前が助ける義理はないのだ。

 

わたしが今友人が一人もおらず、一人ぼっちであることはツイッターなどでも言及したことがあるかもしれないけど、学生時代からぼっちだったわけではなかった。むしろ友人はめちゃくちゃ多かった。フェイスブックの友人リストもLINEの友人も果てしなく多かった。交友関係は幅広く他大にも及んだ。もちろん、その中には形だけでほとんど連絡を取らない人もいたのだけれど。

なぜわたしに友人が多かったのかというと、幹事をやっていたからだと思う。必然的に他ゼミの人と連絡を取り合うし、ゼミ内でもみんなの連絡先とメーリスを管理してた。もちろん、他の人に手伝ってもらうことも多かったので、そういう人間関係から友人になるのは自然だった。友人を作ることに悩んだことは人生で一度もなかったと言ってもいい。保育園、小学校、中学校、高校、大学、どんな場面にも友人たちがいた。何人も顔は思い浮かぶ。あるときはクラス代表、あるときは学級委員、あるときは部長、幹事、学校に関わる役職はありったけやった。出来る限り。なんでそのときどきでそんな行動を取ったのかはわからなかった。誰から押し付けられたわけでもない。自らすすんで自分を追い込んでいったのかもしれない。

今だからわかることだけれど、あれはある種の褒められたい、認められたいというシグナルで、その飢餓感に苛まれていたのかもしれない。でも、まあ、それは自分勝手で押し付けがましいおせっかいに思われていた気がする。誰からも褒められないから、もっと頑張るという悪循環。わたしはいつのまにやら、「いつになったら誰かが褒めてくれるんだ」というチキンレースに自分を駆り立てていた。そして、誰からも褒められず、感謝されないことに自己嫌悪して、「自分の努力がたりないんだ」と、もっともっと自分を追い詰めていったのだった。

大学4年の春にそれははじけてしまった。ちょうど就活に全失敗して、この先どうしようかなと思っていた頃だった。それは「朝起きられない」というところから始まり、不眠、過食、パニック。侵食していった。それから正味一年半、学校には通えなくなった。その間何をしていたのかというと何もしていなかった。日の当たらない真っ暗な一人暮らしの部屋で布団にくるまり、寂しさをつのらせ、孤独をこじらせ、ぼんやりしながらまどろんでいた。何もする気が起きなかった。親の心配をよそ目に、飲酒量が増え、体重が17キロ増えた。眠ろうにも脳内で過去の後悔たちが際限なく会話をしてうるさくて眠れなくなった。部屋を出るのは目の前にあるコンビニに行くときだけで、バイトもやめた。ようやく体調取り戻して大学を卒業できたのは去年の春のことだった。

 

そうして、今、わたしはここにいる。今のわたしはちゃんと眠れているし、体重も17キロちゃんと減らした。散歩して、陽光に当たり、体調もすこぶる健康だ。家の家事を主にして時間を過ごしている。洗濯、ゴミ出し、風呂掃除、ねこのご飯。その他もろもろ。だけど、それで今は精一杯だ。今の生活を維持するので精一杯。フルタイムで働くのはおろか、週3でパートタイムで働くのだって今はきつい。でも、楽しかったことをちゃんと楽しめるようになれたし、まあ、なんとか生きている。

唯一、まだ治せていないのは本を読めていないところだ。それについてはまた別の機会に。今日はこのへんでおしまい。おやすみ。

 

Ending Song

Galileo Galilei「ボニーとクライド」