さよならオーバーグラウンド

愛なき道を行け。

背に腹はかえられない日和。

 

役に立つという言葉にうんざりというか、食傷気味というか、聞くたびにつらい気持ちになる。

役に立つという言葉を人に使うことにちょっとした抵抗を感じる。

なんでそんなめんどうなことを感じたのかというと、祖父母の介護をしていて、老いの末路を見たからだ。

赤ん坊に「役に立つ」という言葉って使いますか。わたしは使わない。老人にも同じようなことが言える。要介護5の祖父は一人では食べることも、排泄することもできない。祖父だっておんなじ人なのに、祖父を前にして「役に立つ」という言葉は虚しい。

役に立つという言葉を使うことに抵抗があるというよりも、役に立たないことがそのまま死につながりうるこの社会はとても生きづらいなと感じただけだった。役に立たなくても生だけは保障されなくちゃそりゃ苦しいわと思う。ましてや、「社会の役に立たなくて食べていくことができず死に至るのは自業自得」となったらもうそれは受け入れられない。でも、「役立たずは死んで当然」と平然と言う人も中にはいるんじゃないかな。一理ある。でも、「わたしに限って大丈夫」とか「わたしは誰の世話にもならない」とかそういうのははっきり言って無理である。公的なものにしろ、民間のものにしろ、誰だって何かしらの世話になる。絶対になる。我が家はいまのところなんとか破綻せずにいるけれど、それは収入がいくらかあるからで、生活保護受給者でなおかつ認知症となったら破綻するだろう。認知症ばかりは誰だってなるし。そもそも、オレオレ詐欺とかで高齢者がターゲットにされて狙われるのは、高齢者になれば、誰だって認知機能は衰えるので、その隙を狙っているのである。わたしの祖母もあやうく詐欺に引っかかるところの寸前までいった。本人はもう忘れてるから、オレオレ詐欺の被害のニュースを見ると、被害者のことを「馬鹿だね~」と鼻で笑っているけれど。

 

マツコ・デラックスさんは、老いたらお金ですべて何とかするしかないとある番組で言っていたのを耳にしたけれど、本当にそう。いつかのためと思って貯めておいて役に立つのはお金くらいしかないのではないか。

 

話がそれたけれど、人に役に立つかたたないかという物差しで判断するのは別にかまわないけれど、それで役に立たないからといって生きることすら許されない世の中は嫌だなあという話でした。まあ、弱者ベースの世の中のほうがいいよということ。それは、他人のためにというよりも自分自身のために。「なんで自分の金が自業自得の他人のために使われなくちゃならないんだ」と思っている人は、その言葉がそのままブーメランになって返ってくるリスクも考慮しなくてはならない。

 

去年、重度の障害者を何十人も殺傷した事件があったけれど、もし加害者の彼の理論がまかりとおって、「何の役にも立たない人は殺してもよい」ということになると、彼自身もその理論から免れられない。もしその理論で世の中が回っているのなら彼の順番はすぐに回ってくるだろう。残念ながら。

 

予備校時代の恩師は、人生で一番重要なことは、誰かの役に立つことでも、そのために働くことでもない。遊ぶことだ。と言った。先生は英語の授業そっちのけで遊ぶことの重要性について語っていたけれど、数年して、遊びすぎたのかクビになったようです。でも先生はしぶといひとだからどこかで生きていると思うけど。

 

それじゃあ今日はこのへんでおしまい。おやすみ。

Ending Song

BUMP OF CHICKEN「グロリアスレボリューション」