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さよならオーバーグラウンド

愛なき道を行け。

それでも残る感触ver.1.1

ずっと自分は孤独なのだと思っていた。どんなにたくさんの友人に囲まれても、孤独はわたしを監視して、少しでも友情みたいなもやもやしたものをつかもうとすれば、水をぶっかけてくる。それは飢えや乾きに似ていた。飢餓だ。砂漠に落ちた雫のように一瞬で蒸発する。それがわたしにとっての友情や恋心で、無我夢中で手を伸ばしてもすり抜けてしまうものだった。そして、孤独の奈落でしょんぼりして、三日月を見上げるのが日常だった。

 

今思えばそんなことはなかった。わたしはどこまでも孤独だったが、わたしだけが孤独だったわけではなかった。孤独を共有していたんだなんてそこまでは言えないけれど、自分勝手に高い城を築いて、そこからみんなを眺めていたのは確かだった。みんなそうだった。孤独の中で孤独だって言葉が口に出ないだけだった。見栄を張って、こっそりマカロンを作っていたようなものだ。

 

孤独がそうだったように、わたしとその学友たちは、強いられていた。あるものを。いろいろなものを。感受性だったり、共感だったり、価値観だったり。わたしは学校というものが大嫌いだった。教師なんてゴミクズだと思っていたし、周りの学友なんて心の中では馬鹿だらけだと思っていた。見下していたわけじゃない。ただ、教師を軽蔑し、学友たちを哀れんでいた。なにより、この学校というシステムにうんざりしていて、何も得るものはないと思っていた。たぶん、村上春樹に感化されたせいだ。それから8年が経って、今も学校というものには反吐が出るけど。

 

押し寿司のようにぎゅうぎゅうに形にはめられたわたしとその学友たちは、作られた孤独を、作られた感受性を刷り込まされていたのだなと思うのだった。まあ、独創性とは社会性と引き換えなのかもしれない。大人になるためだ。

 

ところで、わたしの学校は「自由な校風」を売りにした進学校だった。制服も校則もなし。その中で怠惰になる人もいて、当時は偏差値が下がり、進学する大学のレベルの低下を生徒たちの努力不足にして教師たちは嘆いていたけれど、未成年の生徒たちに責任をべっとりなすりつけて、自分たちはなんにもわるくありませんというスタンスを取る教師たちは社会のクズだと思っていた。

 

教師がクズだという気持ちが確信に変わった事件があった。わたしが運動部の部長だった頃、私たちが使っていた運動部のグラウンドが、急遽仮校舎の建設に伴い使えなくなるということが発表されたことがあった。3年生の10月だった。わたしたちは抗議した。8月の時点で決まっていたことの発表を遅らせたこと、私たち生徒が主体であることを学校の謳い文句にしながら一切説明しなかったこと。そして、抗議する中で最も衝撃的だった一言によって、わたしはすべてを奪われた気がした。すべてを台無しにされた。3年生である私たち生徒に向けられた言葉だった。「おまえらもう関係ないじゃん」。驚愕した。たしかに私たち3年生はもう部活動を引退して関係がなかった。グラウンドが使えなくなっても私たちは困らない。でも、2年生以下の後輩たちは困る。それに対して、自由な校風の牙城をなんとか崩すまいと抵抗しているわたしたちに向けて、よくそんなことが言えるなと思った。それは、「自由な校風が伝統です」「生徒たちの主体的な行動が売りです」とか学校説明会で散々お前らがほざいてるのに反してるじゃないか。わたしの中で教師という存在がゴミクズになった瞬間だった。

 

何の話だっけ。そうそう。教師はクズということから何が言いたいのかというと、学校で感じる孤独も共感もいろいろな感情が作られたもので、自分だけが思っているものでもなくって、みんなそれぞれ同じことを思っている。教師もシステムというものにかわいそうなことに絡め取られていて、思考停止で動いている。残念なことに。

 

結論。高校生の君が感じる孤独も、感情も、全然価値なんてない。コンビニでも買えてしまうくらいだ。君は学校に居場所を見つける必要もないし、友達を作る必要もない。誰かに共感されなくちゃいけないわけでもない。とある教育実習生が、「高校の友人は一生ものだよ(だから大事にしようね)」なんて言ってたけれど、あれは嘘だ。今のわたしを正当化したいわけじゃない。すべてのものは消耗品である。友人も恋人も、裏切りも情熱も。歳を重ねて行くのだから。いずれ私たちは死ぬのだから。もしこれを読んでいる君が孤独を感じたら、疑ってみるといい。それがメディアや教育に作られたものじゃないかどうか。孤独という名のもとに共感していませんか。孤独って分かり合えないものなので、誰に言っても、たとえ日本語話者どうしでも相手に通じないという実感がある。わかりあえずに絶望しよう。絶望して、すべてを捨て去ろう。それでも何かがもやもや残るなら、教えて欲しい。たぶんその感触が君のアイデンティティになるかもしれない。ならないかもしれない。

 

ちなみにわたしはセックスしても恋人として付き合えるわけじゃないということを知ったときに絶望しました。セックスしても相手が自分のことを好きとは限らない。これも情報によって視野狭窄に陥った例です。

 

 

Ending Song

佐藤仁美「ポニの大峡谷」