さよならオーバーグラウンド

愛なき道を行け。

ありふれたオリジナル感動編

そうそう。映画やドラマに感動しないほうだ。そもそも映画やドラマを見ないせいかもしれない。本だったらどんなに怖いホラーもスプラッタがときたま出てきても平気だけれど(好んで読むことはしないけど)、映像はダメだ。訴求力が文字とは比べ物にならない。本だったらページをめくることで飛ばすことができるし、思い浮かべなきゃいいけど、映像はわたしの脳内に無理やり場所を陣取り、恐怖とか痛みを司る部分の扉を強引にこじ開けて、神経を刺激してくる。ちょっとしたサスペンスの出血シーンも耐えられない。血が出ることがわかりきった時点で、もう見続けることができない。アニメでもたぶん無理かもしれない。血恐怖症のせいで、間口を狭めているのかもしれない。結局、見るのはジブリとか、日常系とか、ヒューマンドラマ的なものに限られてしまう。SFの映画は当たりハズレが大きく、あまり見ないし。というわけで、その向こう側にどんなに感動的なクライマックスが待っていようと、わたしは頭の中の出血センサーがアラームを鳴らすとそこで画面を停止してディスク取り出し一生見ないことになるのである。

血がどうしても必要な物語というのはそこまでないように思う。

 

あんまり筆が進まない。

わたしたちは同化しすぎではないかと思う。いろんなもののなかに自分がいるかのように振る舞うから、感動しなくなるのだ。箸の持ち方のようにわざわざ矯正しなくていいことまで真似しちゃう。わたしたちはマナーとかめんどうな所作とかもいろいろあるし、結局隣の人の振る舞いを見ちゃうのだ。

 

パスタをラーメンみたいにすする人がいてもいいということではないですよ。それはマナーだから。すすっちゃだめ。

 

たとえば、他人の悪口ばかり言う人。そんな人のことをどう思いますか。嫌なやつだなとか関わりたくないとかではないです。そういうのを撲滅したいと思う人もいるかもしれないけれど、美しいなあと思う人がいてもいいのではないかということです。最果タヒさんの本を読んだ感想が混ざりました。受け売り。

 

気づき。心のなかに探していた自分を見つけたときに、その居場所をずっと占めてほしいと思っていたその場所を埋めてくれるものに出会ったときにわたしは感動する。でもそれはたぶん、みんなとおんなじということだ。感動とは同化。だからあえて感動しないというわけではないけれど、わたしは物語に感動するということが全く無くそれをコンプレックスに感じていたけれど、それってある種の独自性ではと思う。

 

映画の中にもドラマの中にも、漫画の中にも、小説の中にもどこにも自分を見つけられないのだとしたら。そのあなたの考える自分は独創的なあなただけのオリジナル。たぶんね。大切にしよう。

 

Ending Song

Base Ball Bear 「スローモーションをもう一度 part.2」