さよならオーバーグラウンド

愛なき道を行け。

わたしの宝島。

天啓は嵐のように突然に来るという言い回しがありますけど、嵐って突然来ないですよね。天気予報で大体わかりますし、雨が降ってくれば傘をさすし、風が強くなっていくのだって体感温度でわかります。というわけで、今日は天啓についてメモして寝ます。

 

わたしは天啓人間なので、毎日天啓を受けている。Calling.毎日毎日、ああしていればよかた、こうしていればよかったと後悔しつつ。

 

ウィットに富んだ言い回しや気の利いたセリフをその会話をした10秒後にはっと思いつく才能があると自負している。もし自分がタイムリープできるなら、わたしはきっと素晴らしく切れ者だと思われるに違いない。要するに、切れ者もどきである。

 

デジャヴュというのは、みんな知っている通り、初めてのできごとなのに以前に体験したことがあるかのような感覚に陥ることをさすが、ツイッターで、誰かが「あれはセーブポイントに戻ったということだ」と言っていて思わず何度も膝を叩いた。わたしはパラレルワールドでは何らかの原因によって死んでいて、デジャヴュしたわたしはセーブポイントに戻ってきたn回目のわたしなのだ。

 

今日の天啓は、サカナクションの「新宝島」を聞いているとき突然起きた。それは嵐とは言えないけれど、サンダーボルトのようにわたしをつらぬいた。「新宝島」に「次の目的地を描くんだ」という歌詞がある。わたしはサカナクション新宝島」がリリースされて以来、毎日聞くことを日課にしており、今日もルーティンのようになんとなく聞いていた。そしてふと「目的地って描けるのだっけ?」と思った。それはまさに天啓だった。場所としての、目的地は(思い通りに)描くことはできない。選ぶことはできても。でも、この歌詞の目的地を人生のその先の自分と捉えれば、それは描くことが可能だ。そう、目的地を描くことができるのだ。社会との折り合いや、人間関係のしがらみなどがたとえあれど、わたしは自分の未来を自分で決めていいのだ。あるいはこうしたいとか、こうなりたいとか、自分で決める。そうした当たり前の思考に気がつくのに24年の時間を要した。遅いかもしれないが、今より若い時間はないので、ぼちぼち進むしかない。

 

わたしは今までの人生を振り返って例えば志望校とか人間関係とかを自分で決めてきたと思っていた。でも、それはひょっとしたら、流されていたのかもしれない。その場しのぎの回答を出し続けてきただけかもしれない。それはそれでよかったけれど、今日わたしは天啓を得た。「目的地を自ら描く」という天啓を。そうなれば、わたしは最強だ。往年のロジャー・フェデラーのように、誰もわたしを止めることができない。

 

わたしは、自らの宝島を目指して嵐渦巻く大海へ船を漕ぎだしたばかりだ。

 

Ending Song

サカナクション新宝島