さよならオーバーグラウンド

愛なき道を行け。

夢のリアリティに耐えられないわたしは現実へと逃避する。

孤独な人生がありえないように、インプットのないアウトプットもありえない。

今朝の夢で、ロシア人女性のプロテニスプレイヤーに添い寝された。アニメの少佐に似ていた。彼女はドーピングによる謹慎処分から復帰したシャラポワに対して対抗心を燃やす若き闘士であった。きっとチャレンジャーとかたまに250くらいの大会を回っているのかもしれないが、予選を通過して500の大会に出ることが叶ったのだ。その闘士になぜ添い寝されることになったのかはわからない。そこはまあ夢だから整合性を求めても仕方がない。首に両腕を回されて、肩に頭をもたげるようにして彼女は眠った。わたしは彼女の髪の毛の感触にくすぐったさをかんじながら、硬直して全く眠れなかった(注:眠ってます、夢なので)。彼女と一緒にねむる前に、わたしは彼女に自信を持つように励ました。おそらく、彼女は明日の試合に不安を感じていたのかもしれない。彼女の髪の匂いや、体温や寝息を感じながら、繰り返しになるがわたしは緊張して全く眠れなかった。(実際はぐっすり眠っている)。彼女はその身体や心のすべてをわたしにあずけていた。そうした誰かに頼られていることへの愉悦は、理屈抜きで心地よかった。

 

目覚めて、現実に戻ってきたときもその感覚は確かに残っていた。しかし、この記事においていいたいことはわたしの夢についてではない。インプットとアウトプットについてである。わたしは今、小説を書くことを画策している。しかし、ラップトップの前では一行も出てこない。出てきても続かない。要するにアウトプットがまったくできないのだ。仕方がないので、インプットに徹することにした。要するに読書をしている。やはりインプット無くしてアウトプットはないだろうとかんがえたのだ。そこで、ふと思い出したのであるが、ある本で村上春樹さんと河合隼雄さんが対談しているときの会話で、小説家は夢を見ないという話題が出ていることを思い出した。少なくとも村上春樹さんはまったく夢を見ないらしい。それは小説というアウトプットをしているかららしい。記憶が曖昧なので確信は持てないのだが、そのような会話がなされていたように記憶している。これをわたしに当てはめると、わたしの場合、がんがん夢を見る。それはつまり、小説という形でアウトプットしていないぶん、夢という形でアウトプットをしているのではないかということだ。ただまあ、女性に添い寝されるという物語を読んだ覚えはないので、インプットとアウトプットに相関性はないということは言える。でも、インプットとアウトプットに相関性がないというのは別におかしいことでもないと思うので、まあこういうものなのだろう。

 

余談だが、上記のような愉悦的な夢を見るのは稀である。私の夢は大体の場合恐怖を伴う。びっしょりと寝汗をかきながら、ときにかなしばりにあいながら、恐怖の中で慄くというのが常である。

 

一番怖かったのは強盗にライフルを眉間に押し当てられながら、恫喝された夢である。これは本当に怖かった。銃口が向けられているだけで人はこれほど恐怖するのだということがまざまざとわかった。夢も時には現実では体験できないほどのリアリティを持っているのだ。そして、夢のリアリティに耐えられないわたしは現実に逃げるように醒めるのである。ちなみにこれは師匠の本のウケウリである。

今ふと思い出したけど、夢の中で添い寝されていた女性はあまりにわたしにぺったり密着するので胸がわたしに当たっていた。汗ばんだその感触が大変甘美であったことも備忘のために書き留めておきたい。

 

Ending Song

ヤクシマルエクスペリメント「思い出すことなど」