さよならオーバーグラウンド

愛なき道を行け。

山田ズーニー著『「働きたくない」というあなたへ』を読んで

山田ズーニー氏の『働きたくないというあなたへ』という本を読んで嫌な気分になったのでそれがなぜか解き明かすためにこの記事を書いている。わたしは現在、自宅療養中ということで無職である。主に家の家事を手伝いながら本を読んで過ごしている。昨年の半年間くらいのしばらくの間、祖父の介護をしていたのだけれどそれはもう大変であった。しかし、わたしはあるとき、介護というものを盾にそれを働かない理由にしているのではないか、つまるところ「働きたくない」のではないかという疑念を持ち始めた。そこで、書店でたまたま出会ったこの著者の上記の本を購入し通読した。以下感想を書きたい。

この本は2008年から『ほぼ日刊イトイ新聞』の連載された文章を素地にして構成されている。本書の冒頭では男子学生の将来的な夢が「結婚」である人とたて続けに出会ったとして議論が進んでいく。エビデンスを出してほしいとまでは言わないが、実際に「結婚」を目標にして就職活動に励む人たちがどのくらい当時いたのだろうか。わたし自身は2011年に大学に入学し、2016年に卒業しているが、当時、結婚を夢見てそれを第一目標に掲げている男子学生を見たことがなかったので、すでに山田氏の展開していく議論の前提がわたしの事実認識もしくは体感とは、完全にずれてしまった。2008年以降ももし増えつつあるのであるなら、わたしの学生時代(2011-2016)に、わたし自身も一人ぐらい見かけてもいいようなものであるが、一人も見なかった。もちろん、潜在的にはいたのであろうが、それは部分的なものではないだろうか。そうした部分的な層の学生たち(山田ズーニー氏自身はあくまでそういった学生にたて続けに出会ったに過ぎない)をとっかかりに全体を語るのは論が成り立たないのではないか。

 

また、著者は、「自由」と「居場所」という言葉を用いて、働くことにより、それらを得ることができるということを説いており、一方で、小中高大と連なる学校生活ではそれらは「当たり前に」与えられてきていた。そして、筆者の体験を交えて、働かなければそういったものは失ってしまうのだと説明している。一部を引用しよう。

 

「思えば、小学校・中・高・大学と、箱が、社会とつながっていた。チューブを通して栄養が補給されるように、『へその緒』を通して、社会から、必要な情報も、信頼も、愛情も、与えられ、守られてきた。あまりに当たり前に『居場所』が与えられる生活をしてきたので、自分の手で『居場所』を切り開くことに、あまりにも無頓着で生きてきてしまった」(河出文庫、p.13)

 

この文章の主語は一体なんであろうか。もしこの文章の主語が著者自身「わたし」であるならば、理解することはできる。著者は大変恵まれた学校生活を送られてきたのであろうと拝察できる。しかし、これが読者に向けられている場合(「あなた」)、あるいは著者自身を含めた学校生活を過ごしたすべての人々(「わたしたち」)であるとしたら、わたしは承服することはできない。「自分の手で『居場所』を切り開くことに、あまりにも無頓着で生きてきてしまった」というこの一文をもし読者に対して、あるいは読者を含めて書いているのであるならば、それはあまりに読者を制限しすぎている。もしわたしが書くとしたらこうした文章を書くことはできない。想定する読者層が狭すぎてこの本を読んだ人が「これはわたしに向けられているメッセージである」と思うとはとても考えられないからである。前提として、学校生活の中においても、社会人と同様に居場所は必ずしも与えられることが保障されているものではない。実際、いじめの問題、また、それによる自殺、あるいは不登校といった問題はエビデンスを出すまでもなく、存在しているということは著者自身も理解しているはずである。そうしたいじめを受けた子どもたち、あるいはなんらかの原因で不登校になってしまった子どもたちに対して、著者が「あまりにも無頓着で生きてきてしまった」と言うはずがない。そして、働きさえすれば居場所が与えられることが確実であるというわけでもないことは著者自身もわかっているだろう。

ではこの文章は読者に向けられているものではない。消去法的に残るのはこの文章は著者ご自身の経験に基づく独白であるということである。引用した文章の間に「わたしは」という主語を適宜入れていただければ、この文章の意味がわからなかった人もご理解いただけるかもしれない。「わたしは」という主語を踏まえてこの文章を読むと、この本全体がある種の自らの人生の過程の正当性の主張であるということ、自分は苦労しているが充実しているということの確認であることがわかる。時折、読者からの便りに依拠しつつ、自分のやってきたことは間違っていなかったのだと、どうしても確認したいようにみえる。

結論として、わたしが感じた嫌な感覚というのは、この本が、「『働きたくない』というあなたへ」と称していながら、中身は著者ご自身の人生の正当性の確認ないし強調であるというズレから生じるものであった。「あなたへ」と称して贈られてきたものが、著者ご自身の「ひとり語り」であるということの不愉快さはご理解いただけるかと思う。ただ、著者はこの著書において大変正しくまっとうなことを言っており、反論の余地はない。ただ唯一間違っている点があるとするならば、タイトルは『「働きたくない」というわたしへ』にすべきではなかったかということである。

 

大変興味深い書物であるので、ぜひみなさんも手にとって読んでみてほしい。

 

Ending Song

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