さよならオーバーグラウンド

愛なき道を行け。

Facebookに久しぶりにログインしたら自分が死んでいたことを思い出した。

久しぶりにFacebookにログインした。大学時代の友人たちと全く連絡をとっていなかったので、友だち欄がとても懐かしかった。でも、感傷的になるには時間が経ちすぎていて、当時のことを断片的にしか思い出すことができなかった。それに、そうだ、ぼくは死んでいたのだと思った。どういうことか。ぼくは最近学んだのだが、ぼくが気配りだと思っていた過去の様々な振る舞いは盛大な無駄でしかなかったようなのだ。確かに思い当たる節がある。非常に耳に痛い話だ。そして、そうした今となっては余計なおせっかいであったいろいろなあれこれを思い出すにつれ、非常に胸がいたんできた。心臓も今日ばかりは赤血球の代わりにいがぐりを流すことにしているかのようだった。血管がちくちくと悲鳴を上げるに連れていろいろなことが思い出された。ということは、つまりぼくは忘れていなかったわけだ。若気の至りと言えばそれまでなのだが、貴重な友人たちとの楽しかった日々を。ただ問題は、ぼくにとっては楽しかったとしても友人たちがそうしたできごとを同じように思っていたわけではないということだ。『Novel 11,Book 18』の主人公の息子のペーテルみたいに偉そうに、ぼくは講釈たれて煙たがられていたのかも知れないし、昼食のときにできれば他のテーブルに行ってくれないかななんておもわれていたことぐらいあったかもしれない。今となってはわからない。非常に痛ましい話だ。そして、よくある話でもある。良かれと思ってやったことが(そのときは良かれとさえ思っていなかったとしても)、実は周囲にとんでもない迷惑を撒き散らしていたなんてことは。

 

おうおうにしてあることではあるのだが、ぼくは結局のところ誰からも必要とされていないのではないかと思う。相変わらずうじうじと嘆いているし。

 

川上未映子の『あこがれ』を最近読んだ。もっと早く読めばよかったというのが、まず第一の感想である。なぜか。それは登場人物の一人であるヘガティーが教えてくれる。ミスアイスサンドイッチに会いに行くことをためらう麦くんにヘガティーはいますぐ会わなければ、そして会い続けなければ、その人は簡単に、いともたやすく君の目の前からいなくなってしまうだろうと言う。ヘガティーは非常に大切なことを言っている。そして、ぼくはこのことを早く学ぶべきだったのだ。ヘガティーは言う。「できるだけ今度っていうのがない世界」の住人になることにしたのだと。ぼくがある誰かと会う理由を考えているうちに、会うのを後回しにしているうちに、その誰かはみるみる遠ざかっていくだろう。とり損ねた回転寿司の皿のように。取り損ねたと思った時にはもう他の誰かが手に取っていて、もう僕が手に取ることはない。なぜならそれはもう誰かのお腹の中だからだ。そのとき、ぼくは誰かに会う理由を、余裕のない顔でまるめて歩道橋下を通り過ぎるトラックの荷台にでも放り投げたつもりでいるのだ、そのまるめたものが友人そのものであることに気がつくこともなく。私たちがとある誰かに会う理由なんて、例えば学校や会社とかいうシステムの外側では、ほぼ皆無に等しいのだ。学校に行かなければ、会社に行かなければ、まったく会わないなんてことはざらにある。ざらにあると言いながら、ぼくは『あこがれ』を読むまでこのシンプルなことに気がつきもしなかった。自分自身が友人たちの前から突然姿を消した当事者であるにもかかわらず。そうなのだ。誰かに会う理由というのは実は非常にシステマティックで現実的な理由であることがほぼ全てなのだ。密接に指を絡ませあっている恋人同士でさえも、だからこそというべきか、次の瞬間には簡単に音信不通になってしまう。あなたが絡ませているその指同士がARの投下映像ではないという保証ははわあねよあかかこつあううない。ぼくと誰かをつなぐ理由なんて実は本当は蟻の足跡ほどもなくて、あれほど仲が良かった(とぼくが勝手に思っていた)友人も、大学を卒業してしまえば、何の音沙汰もなくなってしまう。Facebook上でのいいね!の交換すらしなくなる。それは相手が、実はぼくのことを嫌いだと思っていて、距離を取りたがっていた証左だというよりも、むしろ、ぼくとその誰かを結びつけるものというのは、実は大学という非常に実際的なシステム自体であったというだけなのだ(語り合った言葉の重みや、一緒に過ごした時間といったものではなく。そうした見えないけど堅牢そうに見えるなにかに思いを仮託したくなってしまう気持ちは痛いほどわかるし、そうした見えないものの力が弱かったせいで疎遠になってしまうんだと結論づけたくなってしまうのだが)。それに、ぼくだけがその誰かの友人なわけでもないのだ。その誰かにだって、その人自身の人生があり、社会人としての生活があり、その生活での新たな関係の立ち位置があるのだし。

 

いずれにせよ、何が言いたいのかというと、ぼくはとうぶん立ち直れそうにないということだ。失ったものの大きさに今頃気がついた。僕が虫喰い程度の穴だと思っていたものは実は航空写真のそれで、本当の実寸は琵琶湖くらいあったのだ。そして、4年経った今、その湖ももう涸れてしまっていた。厳密には僕自身が涸らしてしまったのだということに気がつくのに4年かかった。